・・・気を取り直して、家へはいる。トランクひとつさげていない自身の姿を、やりきれなく思う。家の中は、小暗く、しんとしている。あによめが、いちばんさきに私の姿を見つけるにちがいない。私は、すでに針のむしろの思いである。私は、阿呆のような無表情にちが・・・ 太宰治 「花燭」
・・・(全く自信を取りかえしたものの如く、卓上、山と積まれたる水菓子、バナナ一本を取りあげるより早く頬ばり、ハンケチ出して指先を拭い口を拭い一瞬苦悶、はっと気を取り直したる態私は、このバナナを食うたびごとに思い出す。三年まえ、私は中村地平という少・・・ 太宰治 「喝采」
・・・私は気を取り直し、「とにかく立たないか。君に、言いたい事があるんだ。」 胸に、或る計画が浮かんだ。「怒ったのかね。仕様がねえなあ。弱い者いじめを始めるんじゃないだろうね。」 言う事がいちいち不愉快である。「僕のほうが、弱・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・幸吉さんも、少しひるんで、そう小声で告白して、それから、ちょっと考えて気を取り直し、「いいんだ。かまわない。ここでなくちゃいけないんだ。さ、はいりましょう。」 何か、わけがあるらしかった。「大丈夫かなあ。」私は、幸吉にも、あまり金を・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・へんによそよそしい口調でそう言って鉛筆を取り直し、またスケッチにふけりはじめた。私はそのうしろに立ったままで暫くもじもじしていたが、やがて決心をつけてベンチへ腰をおろし、佐竹のスケッチブックをそっと覗いてみた。佐竹はすぐに察知したらしく、・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・もすっかり灰にしてしまったとかで、御所へ参りましても、まるでもう呆けたようになって、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその様を見て、笑いを制する事が出来ず、ついクスクスと笑ってしまって、はっと気を取り直して御奥の将軍家のお顔を伺い見まし・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・気を取り直して、見ると、運転台から降りたT君は、群集の一ばんうしろに立っている私を、いち早く見つけた様子で挙手の礼をしているのである。私は、それでも一瞬疑って、あたりを見廻し躊躇したが、やはり私に礼をしているのに違いなかった。私は決意して群・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・私は、気を取り直して、「ついさっき。あなたが眠っていらっしゃる間に。あなた、笑いながら眠っていたわ。あたし、こっそりあなたの枕もとに置いといたの。知らなかったでしょう?」「ああ、知らなかった。」妹は、夕闇の迫った薄暗い部屋の中で、白・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・私は気を取り直して言いました。「そうですか。」軽く答えました。あまり私に関心を持っていない様子です。「どうして私の事をご存じになったのでしょう。それを伺いにまいりましたの。」私は、そんな事を言って、体裁を取りつくろってみました。・・・ 太宰治 「恥」
・・・一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰・・・ 太宰治 「走れメロス」
出典:青空文庫