・・・ 洋一は妙にてれながら、電話の受話器を耳へ当てた。するとまだ交換手が出ない内に、帳場机にいた神山が、後から彼へ声をかけた。「洋一さん。谷村病院ですか?」「ああ、谷村病院。」 彼は受話器を持ったなり、神山の方を振り返った。神山・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 書類が一山片づいた後、陳はふと何か思い出したように、卓上電話の受話器を耳へ当てた。「私の家へかけてくれ給え。」 陳の唇を洩れる言葉は、妙に底力のある日本語であった。「誰?――婆や?――奥さんにちょいと出て貰ってくれ。――房・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・僕は驚いて立ち上り、受話器を耳へやって返事をした。「どなた?」「あたしです。あたし……」 相手は僕の姉の娘だった。「何だい? どうかしたのかい?」「ええ、あの大へんなことが起ったんです。ですから、……大へんなことが起った・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・と云っているのだか、言葉は皆目わからないのですが、とにかく勢いの好い泰さんの声とは正反対に、鼻へかかった、力のない、喘ぐような、まだるい声が、ちょうど陰と日向とのように泰さんの饒舌って行く間を縫って、受話器の底へ流れこむのです。始めの内は新・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・次郎は床柱のほうへ寄って、自分で装置したラジオの受話器を耳にあてがった。細いアンテナの線を通して伝わって来る都会の声も、その音楽も、当分は耳にすることのできないかのように。 その晩は、お徳もなごりを惜しむというふうで、台所を片づけてから・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ このほうの玄人に聞いてみると、飲食店や店頭にある拡声器が不完全なためにそういう事になるので、よく調節された器械で鉱石検波器を使ってそして耳にあてる受話器を使えばそんなことはないそうである。しかし頭へ金属の鉢巻をしてまでも聞きたいと思う・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・ そこにはいままでに見たこともないような大きなテーブルがあって、そのまん中に一人の少し髪の白くなった人のよさそうな立派な人が、きちんとすわって耳に受話器をあてながら何か書いていました。そしてブドリのはいって来たのを見ると、すぐ横の椅子を・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・インガは新たな意志で受話器をとった。「――はい。工場です。モスクワから?……どうぞ、インガ・ギーゼルがきいています。」―― 〔一九三一年三月〕 宮本百合子 「「インガ」」
・・・――上落合に住んでいたこともあり、そういうところに縁もなくはないから、あした流れるという言葉に慌てさせる実感があって、私は受話器を耳に当てたままいそがしく記憶の裡をかきさがした。それでハガキにはそれだけ書いてあるっきりなの? ええ。名がちが・・・ 宮本百合子 「まちがい」
出典:青空文庫