・・・口を少しあけて人のよさそうな、たわいのない笑いをいつもその目じりと口元に現わしているのがこの人の癖でした。「そろそろ寝ようかと思っているところです。」と私が言ううち、婦人は火鉢のそばにすわって、「先生私は少しお願いがあるのですが。」・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・一人の将校が軍刀の柄に手をかけて、白樺の下をぐる/\歩いていた。口元の引きしまった、眼が怒っている若い男だ。兵卒達の顔には何かを期待する色が現れていた。将校は、穴や白樺や、兵卒の幾分輝かしい顔色を意識しつゝ、なお、それ等から離れて、ほかの形・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・同時に、ちぢれた鬚を持った口元を動かして何か云おうとするような表情をした。しかし、何も云わず、ぶくぶくした手が剣身を握りとめないうちに、剣は、肋骨の間にささって肺臓を突き通し背にまで出てしまった。栗本は夢ではないかと考えた。同時に、取りかえ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・そして今度はトマトを食っている俺の口元をだまって見つめていた。俺はその男に不思議な圧迫を感じた。どたん場へくると、俺はこの男よりも出来ていないのかと、その時思った。 自動車は昼頃やってきた。俺は窓という窓に鉄棒を張った「護送自動車」を想・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・火鉢のふちに両肱を立てて、ちょうどさかずきを目の高さに持っていた女は、口元まで持っていったのをやめて、じっとそれに見入った。両方とも少しだまった。と、女は顔をあげで、「そんなこときいて何するの?」ときいた。そして、「イヤ! 私いや!・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・少しふとって、愛想のよい口元をしていて、私にも、感じがよかった。三本のうち、まんなかの夾竹桃をゆずっていただくことにして、私は、お隣りの縁側に腰をかけ、話をした。たしかに次のようなことを言ったとおぼえている。「くには、青森です。夾竹桃な・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・煙管を口元へ持って行くのにも、腕をうしろから大廻しに廻して持っていって、やがてすぱりと一服すうのである。度胸のすわった男に見えた。 つぎにはものの言いようである。奥のしれぬようなぼそぼそ声で言おうと思った。喧嘩のまえには何かしら気のきい・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・深い悲しみと、あきらめと、思いやりのこもった微笑を口元に浮べて、生れながらの女王のように落ちついている。王子は、ラプンツェルと、そっと微笑を交しただけで、心も、なごやかになって楽しいのである。夫と妻は、その生涯に於いて、幾度も結婚をし直さな・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・少女マヌエラのほうは、理性よりも、情緒の勝った子供らしい、そうしてなんとなく夢を見ているような目と、なんとなくしまりの悪い口元のあたりにセンシュアルな影がある。それがこの劇の心理的内容を複雑にするに有効であるように見える。 ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・すなわち甲にとってはAとBとの二人の顔の中で、例えば眼だけが注意の焦点となるのに、乙には眼はそんなに問題にならないで口許が特に大切な特徴となって印象される、という場合がそれである。しかしまたこういうこともあり得る。すなわち甲はAの眼を少し大・・・ 寺田寅彦 「観点と距離」
出典:青空文庫