・・・テツさんは貧しい育ちの娘であるから、少々内福な汐田の家では二人の結婚は不承知であって、それゆえ汐田は彼の父親と、いくたびとなく烈しい口論をした。その最初の喧嘩の際、汐田は卒倒せん許りに興奮して、しまいに、滴々と鼻血を流したのであるが、そのよ・・・ 太宰治 「列車」
・・・源因は私ならぬ政治上の紛議の果とも云い、あるは鷹狩の帰りに獲物争いの口論からと唱え、又は夜鴉の城主の愛女クララの身の上に係る衝突に本づくとも言触らす。過ぐる日の饗筵に、卓上の酒尽きて、居並ぶ人の舌の根のしどろに緩む時、首席を占むる隣り合せの・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・勿論看病のしかたは自分の気にくわぬので、口論もしたり喧嘩もしたり、それがために自分は病床に煩悶して生きても死んでも居られんというような場合が少くはないが、それは看病の巧拙のことで、いずれにした所で家族の者の苦しさは察するに余りがあるのである・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ 気の荒くなった栄蔵は、要領を得ない医者に口論を吹かける事がある。「一寸も分らん医者はんや、 私はもう貴方の世話んならんとええ、 どうせなおらんものに、金をすてて居られんわ。 さ、さっさとお帰り、 もう決して世話・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・その殉死の理由は、それから三十年も昔、主命によって長崎に渡り、南蛮渡来の伽羅の香木を買いに行ったとき、本木を買うか末木を買うかという口論から、本木説を固守した彌五右衛門は相役横田から仕かけられてその男を只一打に討ち果した。彌五右衛門は「某は・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・やがて口論の場面が来、最後には奇想天外的に一匹の猿が登場する。瘠せた猿がちょこなんと止り木にのっている。前に立って飽かれた妻が重そうな丸髷を傾け、「猿公、旦はんどこへ行かはったか知らんか」と訊いている。―― 絵物語の女が桃龍自身・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ 几帳面で、級の衛生委員をやっているアリョーシャが、いつまでも机の横へつったってニーナと口論しつづけている。「やだヨ! お前となんか坐るもんか! いつだって机ん中ゴシャゴシャにしとる奴! この前級の赤いクレイオンがなくなったのだって・・・ 宮本百合子 「砂遊場からの同志」
・・・ 四五度引っくり返っては起きなおり起きなおりして居る内に二人とも疲れ切ってしまってペタッと座ったまんま今度は、もう車夫の口論みたいな悪体の云い合いが始まった。「馬鹿。 間抜け。は通り越して仕舞って聞くにしのびない様な・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・「どうしても僕はお前と口論は出来ない――お前は私を参らせるよ、兄弟。それよりも、さあ、黙ってよう……」 この小さいが逞しい人生についての問答は、後年チェホフが云った一つの言葉を思い起させる。二十四歳で、ロマンティックな作家として世に・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・「どうしても僕はお前と口論は出来ない――お前は私を参らせるよ、兄弟。それよりも、さあ、黙ってよう……」 読んでここへ来ると、私たちは思わず身じろぎをして快い笑いに誘われながら、ああ、ゴーリキイ! と思わずにはいられない。この短い、小・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの発展の特質」
出典:青空文庫