・・・もう一人はやや黄ばみかけた、長い口髭をはやしている。 そのうちに二十前後の支那人は帳簿へペンを走らせながら、目も挙げずに彼へ話しかけた。「アアル・ユウ・ミスタア・ヘンリイ・バレット・アアント・ユウ?」 半三郎はびっくりした。が、・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ただ、ふり離そうとする拍子に、手が向うの口髭にさわりました。いやはや、とんだ時が、満願の夜に当ったものでございます。「その上、相手は、名を訊かれても、名を申しませぬ。所を訊かれても、所を申しませぬ。ただ、云う事を聞けと云うばかりで、坂下・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋の主人は、短い口髭に縁無しの眼鏡と云う、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服装の持ち主だった。慎太郎はこう云う彼等の会話に、妙な歯痒さを感じながら、剛情に一人黙っていた。 しかし戸沢と云う出入り・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・次の龕にある半身像は口髭の太い独逸人です。「これはツァラトストラの詩人ニイチェです。その聖徒は聖徒自身の造った超人に救いを求めました。が、やはり救われずに気違いになってしまったのです。もし気違いにならなかったとすれば、あるいは聖徒の数へ・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・しかもまた、何だか頭巾に似た怪しげな狐色の帽子を被って、口髭に酒の滴を溜めて傍若無人に笑うのだから、それだけでも鴨は逃げてしまう。 こういうような仕末で、その日はただ十時間ばかり海の風に吹かれただけで、鴨は一羽も獲れずしまった。しかし、・・・ 芥川竜之介 「鴨猟」
・・・ただ、すすり上げて泣いている間に、あの人の口髭が私の耳にさわったと思うと、熱い息と一しょに低い声で、「渡を殺そうではないか。」と云う語が、囁かれたのを覚えている。私はそれを聞くと同時に、未に自分にもわからない、不思議に生々した心もちになった・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・近眼鏡をかけた宮本はズボンのポケットへ手を入れたまま、口髭の薄い唇に人の好い微笑を浮べていた。「堀川君。君は女も物体だと云うことを知っているかい?」「動物だと云うことは知っているが。」「動物じゃない。物体だよ。――こいつは僕も苦・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・やや鳶色の口髭のかげにやっと犬歯の見えるくらい、遠慮深そうに笑ったのである。「君は何しろ月給のほかに原稿料もはいるんだから、莫大の収入を占めているんでしょう。」「常談でしょう」と言ったのは今度は相手の保吉である。それも粟野さんの言葉・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・そうしてしばらくは黙然と、口髭ばかり噛んでいました。「煙客先生は五十年前にも、一度この図をご覧になったそうです」 王氏はいっそう気づかわしそうに、こう説明を加えました。廉州先生はまだ翁から、一度も秋山の神逸を聞かされたことがなかった・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・ * 良心は我我の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。 * 一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。 * 我我の悲劇は年少の為、或は訓練の・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
出典:青空文庫