・・・立派な口髭をはやしていたのだ。かの鴎外にしても立派な口髭をはやして軍医総監という要職にありながら、やむにやまれず、不良の新聞記者と戦って共に縁先から落ちたのだ。私などは未だ三十歳を少し越えたばかりの群小作家のひとりに過ぎない。自重もくそも、・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・高浜虚子というおじいさんもいるし、川端龍子という口髭をはやした立派な紳士もいる。」「みんな小説家?」「まあ、そうだ。」 それ以来、その洋画家は、新宿の若松屋に於いては、林先生という事になった。本当は二科の橋田新一郎氏であった。・・・ 太宰治 「眉山」
・・・あの先生、口髭をはやしていやがるけど、あの口髭の趣味は難解だ。うん、どだいあの野郎には、趣味が無いのかも知れん。うん、そうだ、評論家というものには、趣味が無い、したがって嫌悪も無い。僕も、そうかも知れん。なさけなし。しかし、口髭……。口髭を・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・ 戸内を覗くと、明らかな光、西洋蝋燭が二本裸で点っていて、罎詰や小間物などの山のように積まれてある中央の一段高い処に、肥った、口髭の濃い、にこにこした三十男がすわっていた。店では一人の兵士がタオルを展げて見ていた。 そばを見ると、暗・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・道太はというと、彼は口髭がほとんど真白であった。彼をここへ連れてきたことのある、そのころの父の時代をも、おそらく通り過ぎていた。お絹の年をきいて、彼は昨夜驚いたのであった。道太の妻よりも二つも上であった。しかし踊りやお茶の修養があるのと、気・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・彼の手が、ブルッと顔を撫でると、口髭が生えた。さて、彼は、夏羽織に手を通しながら、入口の処で押し合っている、人混みの中へ紛れ込んだ。 旦那の眼四つは、彼を見たけれど、それは別な人間を見た。彼ではなかった。「顔ばかり見てやがらあ。足や・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・その老匠は眉をひそめて口髭を一ひねりした。どうして君は女に生れて来たんだ。スーザンはこの言葉を、パリに来て初めてきいたのではなかった。何年か前、初めて彫刻の教師となったバーンスが、その仕事場で彼の肖像をこね出したスーザンの手元を見て、何と云・・・ 宮本百合子 「『この心の誇り』」
出典:青空文庫