・・・わたくしはその辺にちらかした古本を片付ける。八重は夜具を敷く前、塵を掃出すために縁側の雨戸を一枚あけると、皎々と照りわたる月の光に、樹の影が障子へうつる。八重はあしたの晩、哥沢節のさらいに、二上りの『月夜烏』でも唱おうかという時、植込の方で・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・此のはなしは其日僕が恰東仲通の或貸席に開かれた古書売立の市で漢籍を買って、その帰途に立寄った時、お民が古本を見て急に思出したように語ったことである。 お民は父母のことを呼ぶに、当世の娘のように、「おとうさん、おかあさん」とは言わず「おっ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・から古本の目録をよこした「ドッズレー」の「コレクション」がある。七十円は高いが欲い。それに製本が皮だからな。この前買った「ウァートン」の英詩の歴史は製本が「カルトーバー」で古色蒼然としていて実に安い掘出し物だ。しかし為替が来なくっては本も買・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・今井へ行き、都で食事をし、east side に出かける、古本を見に。 二十一日 少し曇り気味の風の吹く日。ミス コーフィールドに電話で歎願して、パリセードに行く。 自分の膝に頭を横えて、静に涙をこぼす彼の上に風が吹・・・ 宮本百合子 「「黄銅時代」創作メモ」
・・・昔あの本をあなたは古本でお買いになったのかしら。十九世紀のシムボリストのところを見たらカントの哲学との関係についてノートがあって面白い。いろいろ面白い。万年筆でひかれてある条の傍に更に点をうってゆくようなこともあります。そういうときは大変に・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・その晩例によっておそくまで仕事をしていて、十八日の朝おきて、下の長火鉢のよこへ降りて行ったら、いろんな手紙、古本屋の引札や温泉宿の広告や、そんなものの間に、さも何でもなさそうに挾んで置かれてあった。それをとりあげ、そのまま又二階へまい戻りま・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ ひどくこの地方名物の風が吹き荒んで、おちおちものも書けない或る日、私は埃くさい三畳で古本箱やその囲りに散っている本等を整理した。私が此那好奇心を起したのは、強ち祖父に忠実なよき孫である証拠ではない。昨年の震火災で夥しい書籍が焼けてしま・・・ 宮本百合子 「蠹魚」
・・・ 桃色と赤のスイートピー ◎銀座の六月初旬の夜、九時すぎ ◎山崎の鈍く光る大硝子飾窓 ◎夕刊の鈴の音、 ◎古本ややさらさの布売の間にぼんやり香水の小さい商品をならべて居る大きな赧髭のロシア人 ◎気がつ・・・ 宮本百合子 「一九二三年夏」
・・・ 外壁に沿った裏通りに古本屋が露店を出し、空屋に店を出して居るところにモーランの夜開く、武郎の或女、ゾラの小説がさらしてあった。 ○壁の厚さの感じ。 五日 ひどいモローズ プーシュキン・ブルールの樹木が皆真白・・・ 宮本百合子 「一九二七年八月より」
・・・高等学校の学生であった頃から父の洋行したい心持はつよく、ロンドンやパリの地図はヴェデカの古本を買って暗記する位であった由。この知識が偶然の功を奏して、当時富士見町の角屋敷に官職を辞していた老父のところへ、洋行がえりの同県人と称して来て五十円・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
出典:青空文庫