汽車は流星の疾きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラットフォームの上に振り落す。余が踵の堅き叩きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火の粉をぱっと吐いて、暗い国へ轟と去った。 たださえ京は淋しい所である。原に真葛、・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
蠅を叩きつぶしたところで、蠅の「物そのもの」は死にはしない。単に蠅の現象をつぶしたばかりだ。―― ショウペンハウエル。 1 旅への誘いが、次第に私の空想から消えて行った。昔はただ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・こんな状態の女を搾取材料にしている三人の蛞蝓共を、「叩き壊してやろう」と決心した。「誰かがひどくしたのかね。誰かに苛められたの」私は入口の方をチョッと見やりながら訊いた。 もう戸外はすっかり真っ暗になってしまった。此だだっ広い押しつ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・もしまた誤って柱に行き当り額に瘤を出して泣き出すことあれば、これを叱らずしてかえって過ちを柱に帰し、柱を打ち叩きて子供を慰むることあり。さてこの二つの場合において、子供の方にてはいずれも自身の誤りなれば頓と区別はなきことなれども、一には叱ら・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・と問うと、穏坊はスパスパと吹かしていた煙管を自分の腰かけている石で叩きながら「そうさねー、雨になるかも知れない」と平気な声で答えている。「今降り出されちゃア困まってしまう、どうしたらよかろう」と附添の一人が気遣わしげにいうと、穏坊は相変らず・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ 画かきがよろこんで手を叩きました。「うまいうまい。よしよし。夏のおどりの第三夜。みんな順々にここに出て歌うんだ。じぶんの文句でじぶんのふしで歌うんだ。一等賞から九等賞まではぼくが大きなメタルを書いて、明日枝にぶらさげてやる。」・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・じっと竦んで、右を見、左を眺め廻した末、子供は恐ろしさに我慢が出来なくなって、涙をこぼし泣き乍ら、小さい拳で、広い地層を叩き出した。「よう! よーお!」 両方の絶壁は子供の感情を知った。憐れに思い、何とかしてやりたく思う。泣声は次第・・・ 宮本百合子 「傾く日」
・・・ これまで例の口の端の括弧を二重三重にして、妙な微笑を顔に湛えて、葉巻の烟を吹きながら聞いていた綾小路は、煙草の灰を灰皿に叩き落して、身を起しながら、「駄目だ」と、簡単に一言云って、煖炉を背にして立った。そしてめまぐろしく歩き廻りながら・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・といいながら自分の頭を叩き出した。 しかし、いつまでもそういう遊びをしているわけにはいかなかった。灸は突然犬の真似をした。そして、高く「わん、わん。」と吠えながら女の子の足元へ突進した。女の子は恐わそうな顔をして灸の頭を強く叩いた。灸は・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・その日には昔からの知合の善い人達がわたくしの部屋の戸を叩きに参るのでございます。その人達はお寺へ参るような風で、わたくしの所へ参りますの。曠着を着まして、足を爪立てまして、手には花束を持ちまして。」 一間の内はひっそりとしている。外で振・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫