・・・ 六 その内に部屋の中からは、誰かのわっと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたようです。遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ おすみは涙を呑みこんでから、半ば叫ぶように言葉を投げた。「けれどもそれははらいそへ参りたいからではございません。ただあなたの、――あなたのお供を致すのでございます。」 孫七は長い間黙っていた。しかしその顔は蒼ざめたり、また血の・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・気持ち悪げに泣き叫ぶ赤坊の股の下はよくぐしょ濡れになっていた。 お前たちは不思議に他人になつかない子供たちだった。ようようお前たちを寝かしつけてから私はそっと書斎に這入って調べ物をした。体は疲れて頭は興奮していた。仕事をすまして寝付こう・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・一一 このディレンマを破らんがために、野に叫ぶ人の声が現われた。一つの声は道のみを残して人は滅びよと言った。あまりに意地悪き二つの道に対する面当てである。一つの声は二つの道を踏み破ってさらに他の知らざる道に入れと言った。一種・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ と呼ぶ声、叫ぶ声、女どもの形は、黒い入道雲を泳ぐように立騒ぐ真上を、煙の柱は、じりじりと蔽い重る。…… 畜生――修羅――何等の光景。 たちまち天に蔓って、あの湖の薬研の銀も真黒になったかと思うと、村人も、往来も、いつまたたく間・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・小児のうちに一人、誰とも知らずかく叫ぶとともに、ばらばらと、左右に分れて逃げ入る。 木の葉落つ。木の葉落つる中に、一人の画工と四個の黒き姿と頻に踊る。画工は靴を穿いたり、後の三羽の烏皆爪尖まで黒し。初の烏ひとり、裾をこぼるる・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 何か人声が遠くに聞えるよと耳を立てて聞くと、助け舟は無いかア……助け舟は無いかア……と叫ぶのである。それも三回ばかりで声は止んだ。水量が盛んで人間の騒ぎも壓せられてるものか、割合に世間は静かだ。まだ宵の口と思うのに、水の音と牛の鳴く声・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・奈々ちゃんお先においでよ奈々ちゃんと雪子が叫ぶ。幼きふたりの伝令使は見る間に飛び込んできた。ふたりは同体に父の背に取りつく。「おんちゃんごはんおあがんなさいって」「おはんなさいははははは」 父は両手を回し、大きな背にまたふたりを・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・これは、僕の焼けッ腹が叫ぶ声であった。 革鞄をあけて、中の書物や書きかけの原稿などを調べながら、つくづく思うと、この夏中の仕事は――いろんな考えを持って行ったのだが――ただレオナドの紹介ばかりが出来たに過ぎない。それも、今月中の喰い物の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 勿論、演壇または青天井の下で山犬のように吠立って憲政擁護を叫ぶ熱弁、若くは建板に水を流すようにあるいは油紙に火を点けたようにペラペラ喋べり立てる達弁ではなかったが、丁度甲州流の戦法のように隙間なく槍の穂尖を揃えてジリジリと平押しに押寄・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
出典:青空文庫