・・・この女の人は平常可愛い猫を飼っていて、私が行くと、抱いていた胸から、いつもそいつを放して寄来すのであるが、いつも私はそれに辟易するのである。抱きあげて見ると、その仔猫には、いつも微かな香料の匂いがしている。 夢のなかの彼女は、鏡の前で化・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 酒を呑んで書くと、少々手がふるえて困る、然し酒を呑まないで書くと心がふるえるかも知れない。「ああ気の弱い男!」何処に自分が変っている、やはりこれが自分の本音だろう。 可愛い可愛いお露が遊びに来たから、今日はこれで筆を投げる。 ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・中隊が可愛いいんだ。それを、危険なところへ行かなけりゃならんようにしたのは、貴様等二人だぞ! 軍人にあるまじきことだ!」 そして二人は骨の折れる、危険な勤務につかせられた。 松木と武石とは、雪の深い道を中隊から十町ばかりさきに出て歩・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・そうすると後で叔父さんに対って、源三はほんとに可愛い児ですよ、わたしが血の道で口が不味くってお飯が食べられないって云いましたらネ、何か魚でも釣って来てお菜にしてあげましょうって今まで掛って釣をしていましたよ、運が悪くって一尾も釣れなかったけ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 恐らく、彼女は今幸福らしい……無邪気な小鳥…… 彼女が行った後の火の消えたような家庭……暗い寂しい日……それを考えたら何故あんな可愛い小鳥を逃がして了ったろう……何故もっと彼女を大切にしなかったろう……大塚さんは他人の妻に成ってい・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ とほめて、私がつい何の気なしに、「可愛いでしょう? 子供を見てると、ながいきしたいとお思いにならない?」 と言ったら、夫は急に妙な顔になって、「うむ。」 と苦しそうな返事をなさったので、私は、はっとして、冷汗の出る思い・・・ 太宰治 「おさん」
・・・そうして時々仔細らしく頭を動かしてあちらを向いたりこちらを向いたり、仰向いたり俯向いたりするのが実に可愛い見物である。しかるに、不思議なことには、これが老人の歌の拍子にうまく合うように律動的に頭を動かしているように見えるのであった。もしや錯・・・ 寺田寅彦 「鴉と唱歌」
四五日前に、善く人にじゃれつく可愛い犬ころを一匹くれて行った田町の吉兵衛と云う爺さんが、今夜もその犬の懐き具合を見に来たらしい。疳癪の強そうな縁の爛れ気味な赤い目をぱちぱち屡瞬きながら、獣の皮のように硬張った手で時々目脂を拭いて、茶の・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ まだ組合なんか無かった頃の、皆可愛い子分達の中心に、大きく坐って、祝杯などを挙げた当時のことなどが、彼に甦って来た。「そんな、ひどい目に遭わしたのか?」 利平は、蒲団の上へ、そろそろと、起き上った。「だってさ」 女房は・・・ 徳永直 「眼」
・・・特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。情濃やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわけもなく可愛いのである、甘いものは甘い、辛いものは辛いというの外にない。これ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
出典:青空文庫