・・・きっと又台所で居睡りか何かしていたんだろう?」 恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」 女の子はまっ黒な婆さんの・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後にある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶の間へ行った。茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦が懸っている。――そこに髪を切った浅川・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 僕は皆まで聞かずに縁側に飛び出して台所の方に駈けて行った。水を飲ませさえすれば八っちゃんの病気はなおるにちがいないと思った。そうしたら婆やが後からまた呼びかけた。「兄さん水は……早くお母さんの所にいって、早く来て下さいと……」・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・ 女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰児を腕に抱いたまま、手許も上の空で覚束なく、三ツばかり握飯。 潮風で漆の乾びた、板昆布を折ったような、折敷にのせて、カタ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・自分は泳ぐ気味にして台所の軒へ進み寄った。 幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、ランプが点して釣り下げてあった。天井高く釣下げたランプの尻にほとんど水がついておった。床の上に昇って水は乳まであった。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・実をいうと実務というものは台所の権助仕事で、馴れれば誰にも出来る。実務家が自から任ずるほどな難かしいものではない。ところが日本では昔から法科万能で、実務上には学者を疎んじ読書人を軽侮し、議論をしたり文章を書いたり読書に親んだりするとさも働き・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・魚の焼く匂いが薄暗い台所から漂うて来たり、突然水道の音が聴えたりした。佐伯は思い掛けない郷愁をそそられ、毎日この道を通ろうと心に決めた。三丁行くと道は突き当った。左手は原っぱで人夫が二三人集って塵埃の山を焼いていた。咳をしながら右へ折れて三・・・ 織田作之助 「道」
・・・偶然とは云え、斯うした物に紛れ当るということは、余程呪われた者の運命に違いないという気が強くされて―― 彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使いに行ってて留守だったのを幸い、台所へ行って擂木で出来るだけその凹みを直し、妻に見つかっ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・と言いつつ弟は台所に上って、声を上げて泣きだしました、この時、始めて病人は「良ちゃん、よかったね」と、久し振りに笑顔を見せました。 其夜半から看護婦が来ました。看護婦は直ぐ病人の傍へ行って脈をはかり、験温などしました。そして、いきなり本・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・代が変わって友達の名前になっていた。台所から首を出している母らしいひとの眼を彼は避けた。その家が見つかれば道は憶えていた。彼はその方へ歩き出した。 彼は往来に立ち竦んだ。十三年前の自分が往来を走っている! ――その子供は何も知らないで、・・・ 梶井基次郎 「過古」
出典:青空文庫