・・・ 特別に自分を尊敬も為ない代りに、魚あれば魚、野菜あれば野菜、誰が持て来たとも知れず台所に投りこんである。一升徳利をぶらさげて先生、憚りながら地酒では御座らぬ、お露の酌で飲んでみさっせと縁先へ置いて去く老人もある。 ああ気楽だ、自由・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 清吉は、台所で、妻と二人きりになると、「ひとつ山を伐ろう。」と云いだした。 お里はすぐ賛成した。 山の団栗を伐って、それを薪に売ると、相当、金がはいるのであった。 二 正月前に、団栗山を伐った。樹・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・主人は座敷、吉は台所へ下って昼の食事を済ませ、遅いけれども「お出なさい」「出よう」というので以て、二人は出ました。無論その竿を持って、そして場処に行くまでに主人は新しく上手に自分でシカケを段細に拵えました。 さあ出て釣り始めると、時雨が・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・取附きの浮世噺初の座敷はお互いの寸尺知れねば要害厳しく、得て気の屈るものと俊雄は切り上げて帰りしがそれから後は武蔵野へ入り浸り深草ぬしこのかたの恋のお百度秋子秋子と引きつけ引き寄せここらならばと遠くお台所より伺えば御用はないとすげなく振り放・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・觀世善九郎という人が鼓を打ちますと、台所の銅壺の蓋がかたりと持上り、或は屋根の瓦がばら/\/\と落ちたという、それが為瓦胴という銘が下りたという事を申しますが、この七兵衞という人は至って無慾な人でございます。只宅にばかり居まして伎の事のみを・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・ 茶の間の柱のそばは狭い廊下づたいに、玄関や台所への通い口になっていて、そこへ身長を計りに行くものは一人ずつその柱を背にして立たせられた。そんなに背延びしてはずるいと言い出すものがありもっと頭を平らにしてなどと言うものがあって、家じゅう・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・町中を水量たっぷりの澄んだ小川が、それこそ蜘蛛の巣のように縦横無尽に残る隈なく駈けめぐり、清冽の流れの底には水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて、三島の人は台所に座ったままで清潔なお洗濯・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・金のある人は、寝台や台所のついたカミオンに乗って出掛けたらいいだろうと思われるが、まだ日本にはそういう流行はないようである。 鬼押出熔岩流の末端の岩塊をよじ上ってみた。この脚下の一と山だけのものをでも、人工で築き上げるのは大変である。一・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ それからまた台所の方にいたかと思うと、道太が間もなく何か取りかたがた襦袢を著に二階へあがったころには、お絹は床をあげて、彼の脱ぎ棄ての始末をしていた。「ここもいいけれど、昼間は少し暗い」道太はそう言ってちょっと直しさえすれば、ぐっ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 一二度買ってくれた家はおぼえておいて、台所へいってたずねたりする。 しかし売れないときは、いつまで経っても荷が減らない。もう夕方だから早く廻らないと、どこの家でも夕飯の仕度がすんでしまって間にあわなくなる。しきりに気はあせるが、天・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫