・・・ 善兵衛は若い時分から口の悪い男で、少し変物で右左を間違えて言う仲間の一人であったが、年を取るとよけいに口が悪くなった。『彼奴は遠からず死ぬわい』など人の身の上に不吉きわまる予言を試みて平気でいる、それがまた奇妙にあたる。むずかしく・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・順に本数をへらして、右左をちがえて、一番終いには一本になるようにつなぎます。あっしあ加州の御客に聞いておぼえましたがネ、西の人は考がこまかい。それが定跡です。この竿は鮎をねらうのではない、テグスでやってあるけれども、うまくこきがついて順減ら・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・心さえ急かねば謀られる訳はないが、他人にして遣られぬ前にというのと、なまじ前に熟視していて、テッキリ同じ物だと思った心の虚というものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃食わせられたのである。親父はさすがに老功で、後家の・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・それをみな心配げな、真率な、忙しく右左へ動く目でするのである。顔は鋭い空気に晒されて、少なくも六十年を経ている。骨折沢山の生涯のために流した毒々しい汗で腐蝕せられて、褐色になっている。この顔は初めは幅広く肥えていたのである。しかし肉はいつの・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・蛇の皮のふとい杖をゆるやかに振って右左に微笑を送る男もいた。 彼は私のわななく胴体をつよく抱き、口早に囁いた。「おどろくなよ。毎日こうなのだ。」「どうなるのだ。みんなおれたちを狙っている。」山で捕われ、この島につくまでの私のむざ・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・また他の例を取れば物理学でも右左という言葉を用いる、しかしこれも人間というものから割り出した区別で空間自身には右もなければ左もあるはずはない。もしどこまでも非人間的な態度で行けば物理学の書籍からこのような言葉を除去しなければならぬはずである・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・葛餅を獲たる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左りへ馳け廻る。「蟻の夢が醒めました」と女は夢を語る人に向って云う。「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。「抜け出ぬか、抜け出ぬか」としきりに菓子器を叩くは丸い男である。・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も摧けよと圧す。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の悶を人知れぬ方へ洩らさんとするなり。「なに事ぞ」とアーサーは聞く。「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・文鳥は身を逆さまにしないばかりに尖った嘴を黄色い粒の中に刺し込んでは、膨くらんだ首を惜気もなく右左へ振る。籠の底に飛び散る粟の数は幾粒だか分らない。それでも餌壺だけは寂然として静かである。重いものである。餌壺の直径は一寸五分ほどだと思う。・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 今年になって始めての外出だから嬉しくてたまらない。右左をきょろきょろ見まわして、見えるほどのものは一々見逃すまいという覚悟である。しかしそれがためにかえって何も彼も見るあとから忘れてしまう。 暗い丈夫そうな門に「質屋」と書いてある・・・ 正岡子規 「車上の春光」
出典:青空文庫