・・・使も手紙も来ない所をもって見るとやっぱり病気は全快したに相違ない、大丈夫だ、と断定して眠ろうとする。合わす瞳の底に露子の青白い肉の落ちた頬と、窪んで硝子張のように凄い眼がありありと写る。どうも病気は癒っておらぬらしい。しらせはまだ来ぬが、来・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・殊に翻訳を為始めた頃は、語数も原文と同じくし、形をも崩すことなく、偏えに原文の音調を移すのを目的として、形の上に大変苦労したのだが、さて実際はなかなか思うように行かぬ、中にはどうしても自分の標準に合わすことの出来ぬものもあった。で、自分は自・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・その後不折君と共に『小日本』に居るようになって毎日位顔を合すので、顔を合すと例の画論を始めて居た。この時も僕は日本画崇拝であったからいう事が皆衝突する。僕が富士山は善い山だろうというと、不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと・・・ 正岡子規 「画」
・・・など膝つき合わす老女にいたわられたる旅の有り難さ。修禅寺に詣でて蒲の冠者の墓地死所聞きなどす。村はずれの小道を畑づたいにやや山手の方へのぼり行けば四坪ばかり地を囲うて中に範頼の霊を祭りたる小祠とその側に立てたる石碑とのみ空しく秋にあれて中々・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・みイちゃんに逢っては実に合す顔がない。みイちャんも言いたい事があるであろう。こちらも話したい事は山々あるが最う話しする事の出来ない身の上となってしまった。よし話が出来たところが今更いってもみんな愚痴に堕ちてしまう。いわばいうだけ涙の種だから・・・ 正岡子規 「墓」
・・・おふみと芳太郎とは、漠然と瞬間、全く偶然にチラリと目を合わすきりで、それは製作者の表現のプランの上に全然とりあげられていなかったのである。後味の深さ、浅さは、かなりこういうところで決った。溝口氏も、最後を見終った観客が、ただアハハハとおふみ・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・ 共にうたわん 思いあがった大火輪の自らの歌に声を合わす私に 「愚かなるものよ――黙せ――ひざまずき我を拝せ――愚なるものよ――」と云うのを感じて斯う私は歌いつづけた。 ふみとどまり手を組んで眠りに入ろうとする大火輪を守る。・・・ 宮本百合子 「小鳥の如き我は」
・・・ここから、四人称という観念の発明が提出されているにも拘らず、作品の主調はあり合わす現実に屈服して全く通俗化の方向を辿るばかりとなった。 観念的な用語の上では一見非常に手がこんでいるように見えて、内実は卑俗なものへの屈従であるような現実把・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・軌道の二重になりたる処にて、向いよりの車を待合わすこと二度。この間長きときは三十分もあらん。あたりの茶店より茶菓子などもて来れど、飲食わむとする人なし。下りになりてより霧深く、背後より吹く風寒く、忽夏を忘れぬ。されど頭のやましきことは前に比・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・勘次は初め秋三と顔を合すのが不快さに行きたくはなかったが、それは却って秋三を恐れているようでいけないし、とうとう何時の間に決心したのか自分ながら分らずに、ただ母親に曳かれる気持で小屋へ来た。「おい、喜びやれ、往生しよったぞ。」 秋三・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫