・・・もうおしまいという合図らしい。 船首の技手は筒の掃除をする。若い親方はプログラムを畳む。見物は思い思いに散って行った。散った跡の河岸に誰かが焚きすてた焚火の灰がわずかに燻って、ゆるやかな南の風に靡いていた。 いちばん大きな筒から打上・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子をはめる」「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって布団を敷いて寝る。――僕のうちの・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 五人の坑夫、――秋山も小林も混って――は、各々口にバットを喞えて、見張からの合図を待っていた。 何十年も、殆んど毎日のように、導火線に火を移す彼等であっても、その合図を待つ時には緊張しない訳には行かなかった。「恐ろしいもんだ。・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・その人はまたていねいに礼をして目で三郎に合図すると、自分は玄関のほうへまわって外へ出て待っていますと、三郎はみんなの見ている中を目をりんとはってだまって昇降口から出て行って追いつき、二人は運動場を通って川下のほうへ歩いて行きました。 運・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・こうみだれてしまっては仕方くだものの出たのを合図に会長さんは立ちあがりました。けれども会長さんももうへろへろ酔っていたのです。「ええ一寸一言ご挨拶申しあげます。今晩はお客様にはよくおいで下さいました。どうかおゆるりとおくつろぎ下さい。さ・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・旗は、よろこびと幸福とへ向って生活の軌道を切りかえる親切と勇気にみちた信号合図の旗として、かざされ、振られなければならない。嬉々とした人生の建設のために構図し、労作する、その高き旗じるしとして、婦人の大集団の上に、勇敢に、はためかなければな・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・そして、消防の方に何だか合図し、穏かに、楽しそうな風体で、「おらも助けてやるぞ、なあ勇吉どん」と、ふすまをはずして持ち出し、土間のワラをかき集めては火をつけた。――このような見ものを村人は、村始まって見たことはなかった。何という面白・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・さて文吉に合図を教えて客僧に面会して見ると、似も寄らぬ人であった。ようようその場を取り繕って寺を出たが、皆忌々しがる中に、宇平は殊に落胆した。 一行は福田、小川等に礼を言って長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。この時九郎右衛門が足痛・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・初め操縦士と合図しといて落下傘で飛び降りてから、その後の空虚の飛行機へ光線をあてたのです。うまくゆきましたよ。操縦士と夕べは握手して、ウィスキイを二人で飲みました。愉快でしたよそのときは。」 自信に満ちた栖方の笑顔は、日常眼にする群衆の・・・ 横光利一 「微笑」
・・・もちろん合図などをするのではない。自分がパッと飛び出す時に同時に語り手も使い手も出てくれるのである。左右に気を兼ねるようであればこの気合いが出ない。思い切ってパッと出てしまうのである。ところでこの気合いは弾き出しの時に限らない。あらゆる瞬間・・・ 和辻哲郎 「文楽座の人形芝居」
出典:青空文庫