・・・僕はその時、ぬかるみに電車の影が映ったり、雨にぬれた洋傘が光ったりするのに感服していたが、菊池は軒先の看板や標札を覗いては、苗字の読み方や、珍らしい職業の名なぞに注意ばかりしていた。菊池の理智的な心の持ち方は、こんな些事にも現われているよう・・・ 芥川竜之介 「合理的、同時に多量の人間味」
・・・「宛名は」ときくと、平五郎さんだとかなんとか言う。「苗字はなんというんです」と押返して尋ねると、苗字は知らないが平五郎さんで、平五郎さんていえば近所じゅうどこでも知ってるから、苗字なんかなくっても、とどくのに違いないと保証する。さすがの原君・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・一 淡島氏の祖――馬喰町の軽焼屋 椿岳及び寒月が淡島と名乗るは維新の新政に方って町人もまた苗字を戸籍に登録した時、屋号の淡島屋が世間に通りがイイというので淡島と改称したので、本姓は服部であった。かつ椿岳は維新の時、事実上淡島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 浜路一陣のこうふう送春を断す 名花空しく路傍の塵に委す 雲鬟影を吹いて緑地に粘す 血雨声無く紅巾に沁む 命薄く刀下の鬼となるを甘んずるも 情は深くして豈意中の人を忘れん 玉蕭幸ひに同名字あつて 当年未了の因を補ひ得たり・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・名前はコンスタンチェとして、その下に書いた苗字を読める位に消してある。 この手紙を書いた女は、手紙を出してしまうと、直ぐに町へ行って、銃を売る店を尋ねた。そして笑談のように、軽い、好い拳銃を買いたいと云った。それから段々話し込んで、に尾・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・「私の亭主の苗字さ」と言って、女は無理に笑顔を作る。「え」と男は思わず目を見張って顔を見つめたが、苦笑いをして、「笑談だろう?」「あら、本当だよ。去年の秋嫁いて……金さんも知っておいでだろう、以前やっぱり佃にいた魚屋の吉新、吉田・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・近所のお婆さんが来て、勝子の絵本を見ながら講釈しているのに、象のことを鼻巻き象、猿のことを山の若い衆とかやえんとか呼んでいた。苗字のないという子がいるので聞いてみると木樵の子だからと言って村の人は当然な顔をしている。小学校には生徒から名前の・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・名前はコンスタンチェとして、その下に書いた苗字を読める位に消してある。 第二 前回は、「その下に書いた苗字を読める位に消してある。」というところ迄でした。その一句に、匂わせて在る心理の微妙を、私は、くどくどと説明したく・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・薄暗い廊下をとおり、五つか六つ目の左側の部屋のドアに、陣場という貴族の苗字が記されてある。「陣場さん!」と私は大声で、部屋の中に呼びかけた。 はあい、とたしかに答えが聞えた。つづいて、ドアのすりガラスに、何か影が動いた。「やあ、・・・ 太宰治 「メリイクリスマス」
・・・もうだいぶ長く雨風にさらされて白くされ古びとげとげしく木理を現わしているのであるが、その柱の一面に年月日と名字とが刻してある。これは数年前京都大学の地球物理学者たちがここにエアトヴァスの重力偏差計をすえ付けて観測した地点を示す標柱だそうであ・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
出典:青空文庫