・・・ 謙造は一向真面目で、「何という人だ。名札はあるかい。」「いいえ、名札なんか用りません。誰も知らないもののない方でございます。ほほほ、」「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らん・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・「名札はかかっていないけれど、いいかな。」「あき店さ、お前さん、田畝の葦簾張だ。」 と云った。「ぬしがあっても、夜の旅じゃ、休むものに極っていますよ。」「しかし、なかに、どんなものか置いてでもあると、それだとね。」「・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・が、別れしなに、袂から名札を出して、寄越そうとして、また目を光らして引込めてしまった。 ――小鳥は比羅のようなものに包んでくれた。比羅は裂いて汽車の窓から――小鳥は――包み直して宿へ着いてから裏の川へ流した。が、眼張魚は、蟇だと諺に言う・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ああ、その時は何処にも何も無く、すべての土地に持主の名札が貼られてしまっていた。「ええ情ない! なんで私一人だけが皆から、かまって貰えないのだ。この私が、あなたの一番忠実な息子が?」と大声に苦情を叫びながら、彼はゼウスの玉座の前に身を投げた・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・トランクの名札に滝谷と書かれて在ったから、そう呼んだ。「ちょっと。」 相手の顔も見ないで、私はぐんぐん先に歩いた。運命的に吸われるように、その青年は、私のあとへ従いて来た。私は、ひとの心理については多少、自信があったのである。ひとがぼっ・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・休憩室の土間の壁面にメンバーの名札がずらりと並んでいる。ハンディキャップの数で等級別に並べてあるそうだが、やはり上手な人の数が少なくて、上手でない人の数が多いから不思議である。黒板に競技の得点表のようなものが書いてある。一等から十等まで賞が・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・しかし、ことによるとこの姓名札の汚し方の同じ型に属する人には自ずから共通な素質があるかもしれない。そうして、人間の性情の型を判断する場合にこの方がむしろ手相判断などよりも、もっと遥かに科学的な典拠資料になりはしないかと想像される。 少な・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・殊に自分が呱々の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その細密い枝振りの一条一条にまでちゃんと見覚えのある植込の梢を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入る事ができなくなったのかと思・・・ 永井荷風 「伝通院」
根津の大観音に近く、金田夫人の家や二弦琴の師匠や車宿や、ないし落雲館中学などと、いずれも『吾輩は描である』の編中でなじみ越しの家々の間に、名札もろくにはってない古べいの苦沙弥先生の居は、去年の暮れおしつまって西片町へ引・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・ 嘉助ははね上がって馬の名札を押えました。そのうしろから三郎がまるで色のなくなったくちびるをきっと結んでこっちへ出てきました。 嘉助はぶるぶるふるえました。「おうい。」霧の中から一郎のにいさんの声がしました。雷もごろごろ鳴ってい・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
出典:青空文庫