・・・ ――別にこれと云って名案もありませんがとにかくその男が来るのは事実なのでしょう。 ――それはそうです。 ――それじゃあ砂を撒いて置いたらどうでしょう。その男が空でも飛んで来れば別ですが、歩いて来るのなら足跡はのこる筈ですからね・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・だからよしんばあの婆の爪の下から、お敏を救い出す名案があってもだね、おまけにその名案が今日明日中に思いついたにしてもだ。明日の晩お敏に逢えなけりゃ、すべての計画が画餅になる訣だろう。そう思ったら、僕はもう、神にも仏にも見放されたような心もち・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・きのうまでの私の苦労も、所詮は私が馬鹿で、こんな名案に思いつかなかったからなのだ。私だって昔は浅草の父の屋台で、客あしらいは決して下手ではなかったのだから、これからあの中野のお店できっと巧く立ちまわれるに違いない。現に今夜だって私は、チップ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・そのうちに監督に名案が浮んだのである。めし食う男の髭の先に、めしつぶを附着させたら、というのであった。それは、名案ということになった。髭の男に扮している立派な役者は、わかいお弟子の差し出す鏡に向い、その髭の先にめしつぶをくっつけようとあせる・・・ 太宰治 「花燭」
・・・うむ、名案。すごい美人を、どこからか見つけて来てね、そのひとに事情を話し、お前の女房という形になってもらって、それを連れて、お前のその女たち一人々々を歴訪する。効果てきめん。女たちは、皆だまって引下る。どうだ、やってみないか。」 おぼれ・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・何かプレイの名案が無いですか?」 と、気持とまるで反対の事を、足もとの石ころを蹴って言った。「わたくしのアパートにいらっしゃいません? きょうは、はじめから、そのつもりでいたのよ。アパートには、面白いお友達がたくさんいますわ。」・・・ 太宰治 「父」
・・・ もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・とにかく睦子は、この家に置いて行ってもらいたい、と言うのだが、あれとしては、いろいろ考えた末の名案のつもりなのだろう。お前のためにも、それが一ばんいいと考えているらしい。 余計なお世話だわ。 そうだ。余計なお世話にちがいない。しかし・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。苦い真実を臆面なく諸君の前・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・別段の名案も浮ばないからまた「ええ」と答えて置いて、「露子さん露子さん」と風呂場の方を向いて大きな声で怒鳴って見た。「あら、どなたかと思ったら、御早いのねえ――どうなすったの、――何か御用なの?」露子は人の気も知らずにまた同じ質問で苦し・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫