・・・ 客引きは振り向いて言った。自転車につけた提灯のあかりがはげしく揺れ、そして急に小さくなってしまった。 暗がりのなかへひとり取り残されて、私はひどく心細くなった。汽車の時間を勘ちがいして、そんな真夜なかに着いたことといい、客引きの腑・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ただ飛来る弾丸に向い工合、それのみを気にして、さて乗出して弥弾丸の的となったのだ。 それからの此始末。ええええ馬鹿め! 己は馬鹿だったが、此不幸なる埃及の百姓(埃及軍、この百姓になると、これはまた一段と罪が無かろう。鮨でも漬けたように船・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・二人は中央の大テーブルに向い合って椅子に腰かけた。「どうかね、引越しが出来たかね?」「出来ない。家はよう/\見附かったが、今日は越せそうもない。金の都合が出来んもんだから」「そいつあ不可んよ君。……」 横井は彼の訪ねて来た腹・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・の方を向いてそう言った。「僕はあのジャッズというやつが大嫌いなんだ。厭だと思い出すととても堪らない」 黙ってウエイトレスは蓄音器をとめた。彼女は断髪をして薄い夏の洋装をしていた。しかしそれには少しもフレッシュなところがなかった。むしろ南・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・差し向いたる梅屋の一棟は、山を後に水を前に、心を籠めたる建てようのいと優なり。ゆくりなく目を注ぎたるかの二階の一間に、辰弥はまたあるものを認めぬ。明け放したる障子に凭りて、こなたを向きて立てる一人の乙女あり。かの唄の主なるべしと辰弥は直ちに・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・裏の畑に向いた六畳の間に、樋口とこの家の主人の後家の四十七八になる人とが、さし向かいで何か話をしているところでした。この後家の事を、私どもはみなおッ母さんとよんでいました。 おッ母さんはすこぶるむずかしい顔をして樋口の顔を見ています、樋・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・は自らの空虚を充すために価値に向かい、これを実現することによって、自らを充実する。これがわれわれの意志行為である。ライプニッツが同一の木の葉は一枚もないといったように、個性的なものはそれぞれ独自なもので、他に類例を許さない。自然科学では法則・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 曹長が鉛筆を持って這入って来て、彼と向い合って腰掛に腰かけた。獰猛な伍長よりも若そうな、小供らしい曹長だ。何か訊問するんだな、何をきかれたって、疑わしいことがあるもんか! 彼は心かまえた。曹長は露西亜語は、どれくらい勉強したかと訊ねた・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・スルト中村は背を円くし頭を低くして近々と若崎に向い、声も優しく細くして、「火の芸術、火の芸術と君は云うがネ。何の芸術にだって厄介なところはきっと有る。僕の木彫だって難関は有る。せっかくだんだんと彫上げて行って、も少しで仕上になるという時・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・誰かゞソッと側の方を向いて、鼻をかんだ。ある者は何か云おうとしたが、唇がふるえて云えなかった。皆は一言も云わなかった。――然し皆の胸の中には固い、固い決意が結ばれて行った。 * メリヤス工場では又々首切りがあるらしか・・・ 小林多喜二 「父帰る」
出典:青空文庫