・・・ その、もの静に、謹みたる状して俯向く、背のいと痩せたるが、取る年よりも長き月日の、旅のほど思わせつ。 よし、それとても朧気ながら、彼処なる本堂と、向って右の方に唐戸一枚隔てたる夫人堂の大なる御廚子の裡に、綾の几帳の蔭なりし、跪ける・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 四 金石街道の松並木、ちょうどこの人待石から、城下の空を振向くと、陽春三四月の頃は、天の一方をぽっと染めて、銀河の横たうごとき、一条の雲ならぬ紅の霞が懸る。…… 遠山の桜に髣髴たる色であるから、花の盛には相・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・と両手を組違えに二の腕をおさえて、頭が重そうに差俯向く。「むむ、そうかも知れねえ、昨夜そうやってしっかり胸を抱いて死んでたもの。ちょうど痛むのは手の下になってた処よ。」「そうでございますか、あの私はこうやって一生懸命に死にましたわ。・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 省作は、はっとしたけれど例のごとく穏やかな笑いをして政さんの方へ向く。政さんは快活に笑って三つの繩をなってしまった。省作が二つ終えないうちに政さんはちょろり三つなってしまった。満蔵は二俵目の米を倉から出してきて臼へ入れてる。おはまは芋・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・『浮雲』時代の日記に、「常に馴れたる近隣の飼犬のこの頃は余を見ても尾を振りもせず跟をも追はず、その傍を打通れば鼻つらをさしのべて臭ひを嗅ぐのみにて余所を向く、この頃はを食する事稀なれば残りを食まする事もしばしばあらざればと心の中に思ひたり、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・その父親は、手間がとれても、子供の気の向くままにまかせて、ぼんやり立ち止まって、それを見守っていることもありました。「なぜ、人間は、いつまでもこの子供の心を失わずにいられないものだろうか。なぜ年を取るにつれて、悪い考えをもったり、まちが・・・ 小川未明 「幾年もたった後」
・・・ある夜、店から抜け出た彼は、足の向くままに、停車場を指してやってきました。けれども、もとより汽車賃がなかったので、どうすることもできません。見ますと、故郷の方へ立つ夜行列車が出ようとしています。 彼はせめて貨車の中にでも身を隠すことがで・・・ 小川未明 「海へ」
・・・これを見つけた教師は、「なんで、そう横を向くんだ。」としかって、子供をにらみました。子供は、また、毎日教師からしかられたのであります。 小川未明 「教師と子供」
・・・それから、見物の方を向くと、こう言いました。「これはわたくしのたった一人の孫でございます。わたくしは何処へ参るにも、これを連れて歩きましたが、もうきょうからわたくしは一人になってしまいました。 もうこの商売も廃めでございます。これか・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・勝手にしやがれと、そっぽを向くより致し方がない。しかし、コテコテと白粉をつけていても、ふと鼻の横の小さなホクロを見つけてみれば、やはり昔なつかしい古女房である。 たとえば、この間、大阪も到頭こんな姿になり果てたのかと、いやらしい想いをし・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫