・・・となったことを誌した中に、「木薬屋呉服屋の若い者に長崎の様子を尋ね」という文句がある。「竜の子」を二十両で買ったとか「火喰鳥の卵」を小判一枚で買ったとかいう話や、色々の輸入品の棚ざらえなどに関する資料を西鶴が蒐集した方法が、この簡単な文句の・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・室町から東京駅行きのバスに乗ったら、いつものように呉服橋を渡らずに堀ばたに沿うて東京駅東口のほうへぶらりぶらりと運転して行く。臨時運転だからコースが変わったのかと思っていると、運転手が突然「オーイ、オイ、冗談じゃあないよ」とひとり言を言って・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・百貨店で呉服物見切の安売りをする時、品物に注がれるような鋭い目付はここには見られない。また女学校の入学試験に合格しなかった時、娘の顔に現われるような表情もない。 わたくしはここに一言して置く。わたくしは医者でもなく、教育家でもなく、また・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・同じ糸屋や呉服屋の店先にもその品物はすっかり変っている。 かつては六尺町の横町から流派の紋所をつけた柿色の包みを抱えて出て来た稽古通いの娘の姿を今は何処に求めようか。久堅町から編笠を冠って出て来る鳥追の三味線を何処に聞こうか。時代は変っ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・僕はお民が何のために突然僕の家へ来たのかを問うより先に、松屋呉服店あたりで販売するとか聞いているシャルムーズの羽織一枚で殆前後を忘れるまでに狼狽した。殊にその日は博文館との掛合で、いつもより人の出入の多そうに思われる折とて、何はさて置きお民・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ちょうど田舎の呉服屋みたいに、反物を売っているかと思うと傘を売っておったり油も売るという、何屋だか分らぬ万事いっさいを売る家というようなものであったのが、だんだん専門的に傾いていろいろに分れる末はほとんど想像がつかないところまで細かに延びて・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・豆腐屋が豆を潰したり、呉服屋が尺を度ったりする意味で我々も職業に従事する。上下挙って奔走に衣食するようになれば経世利民仁義慈悲の念は次第に自家活計の工夫と両立しがたくなる。よしその局に当る人があっても単に職業として義務心から公共のために画策・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・真個に学校は、呉服屋の広告に使われる処ではございません。けれども、皆より二つ年が上で、お家が大層なお金持で、いつも俥夫が二人がかりで送り迎えをする友子さんは、級中で、一番着物の好きな人でした。「うちの父様は、日本で沢山ないほどのお金持な・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・ 箪笥の一番下のひき出しに、三井呉服店とかいたボール箱に入ったままあるのを見て、娘がきいた。「あれはお父様が西洋のねまきだってさ」 そう云って母は青々と木の茂った庭へ目をやったきりだった。その庭の草むしりを、母は上の二人の子供あ・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・本屋の横には呉服屋が並んでいる。そこの暗い海底のようなメリンスの山の隅では痩せた姙婦が青ざめた鰈のように眼を光らせて沈んでいた。 その横は女学校の門である。午後の三時になると彩色された処女の波が溢れ出した。その横は風呂屋である。ここでは・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫