・・・ 洋一は不服そうに呟きながら、すぐに茶の間を出て行った。おとなしい美津に負け嫌いの松の悪口を聞かせるのが、彼には何となく愉快なような心もちも働いていたのだった。 店の電話に向って見ると、さきは一しょに中学を出た、田村と云う薬屋の息子・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ お蓮はそう呟きながら、静に箱の中の物を抜いた。その拍子に剃刀のにおいが、磨ぎ澄ました鋼のが、かすかに彼女の鼻を打った。 いつか彼女の心の中には、狂暴な野性が動いていた。それは彼女が身を売るまでに、邪慳な継母との争いから、荒むままに・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・本間さんは向うの気色を窺いながら、腹の中でざまを見ろと呟きたくなった。「政治上の差障りさえなければ、僕も喜んで話しますが――万一秘密の洩れた事が、山県公にでも知れて見給え。それこそ僕一人の迷惑ではありませんからね。」 老紳士は考え考・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・と、かすかな声で呟きましたが、やがて物に怯えたように、怖々あたりを見廻して、「余り遅くなりますと、また家の御婆さんに叱られますから、私はもう帰りましょう。」と、根も精もつき果てた人のように云うのです。成程そう云えばここへ来てから、三十分は確・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・となだらかにまた頓着しない、すべてのものを忘れたという音調で誦するのである。 船は水面を横に波状動を起して、急に烈しく揺れた。 読経をはたと留め、「やあ、やあ、かしが、」と呟きざま艫を左へ漕ぎ開くと、二条糸を引いて斜に描かれたの・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ と半ば呟き呟き、颯と巻袖の笏を上げつつ、とこう、石の鳥居の彼方なる、高き帆柱のごとき旗棹の空を仰ぎながら、カタリカタリと足駄を踏んで、斜めに木の鳥居に近づくと、や! 鼻の提灯、真赤な猿の面、飴屋一軒、犬も居らぬに、杢若が明かに店を張っ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・あまり果敢なさに予は思わず呟きぬ。「たッたこれだけ、百滴吸ったらなくなるでしょう。」「いえ、また取りに参ります……」 といいかけて顔を見合せつつ、高津はハッと泣き伏しぬ。ああ、悪きことをいいたり。 秀を忘れよ・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ と呟きぬ。雨は柿の実の落つるがごとく、天井なき屋根を漏るなりけり。狼うなだれて去れり、となり。 世の中、米は高価にて、お犬も人の恐れざりしか。明治四十三年九月・十一月 泉鏡花 「遠野の奇聞」
上「こりゃどうも厄介だねえ。」 観音丸の船員は累々しき盲翁の手を執りて、艀より本船に扶乗する時、かくは呟きぬ。 この「厄介」とともに送られたる五七人の乗客を載了りて、観音丸は徐々として進行せ・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ そう呟きながら、白崎はホームに立っている彼女の顔をしみじみと見た。その匂うばかりの美しさ!「しかし、奇遇でしたね」 と、思わず白崎は言った。「――おかげで退屈しないで済みました。汽車の旅って奴は、誰とでもいい、道連れはない・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
出典:青空文庫