・・・この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛するのである。 銀灰色の靄と青い油のような川の水と、吐息のような、おぼつかない汽笛の音と、石炭船の鳶色の三角帆と、――すべてやみがたい哀愁をよび起すこれ・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ですから中幕がすむと間もなく、あの二人の女連れが向うの桟敷にいなくなった時、私は実際肩が抜けたようなほっとした心もちを味わいました。勿論女の方はいなくなっても、縞の背広はやはり隣の桝で、しっきりなく巻煙草をふかしながら、時々私の方へ眼をやっ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・わたしは喜んでわたしの愛する………黄老爺の血を味わいます。………」 僕は体の震えるのを感じた。それは僕の膝を抑えた含芳の手の震えるのだった。「あなたがたもどうかわたしのように、………あなたがたの愛する人を、………」 玉蘭は譚の言・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・智慧の実を味わい終わった人であってみれば、人として最上の到達はヘダのほかにはないようだ。一五 長々とこんなことを言うのもおかしなものだ。自分も相対界の飯を喰っている人間であるから、この議論にはすぐアンチセシスが起こってくるこ・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・それから一発一発と打つたびに、わたくしは自分で自分を引き裂くような愉快を味わいました。この心の臓は、元は夫と子供の側で、セコンドのように打っていて、時を過ごして来たものでございます。それが今は数知れぬ弾丸に打ち抜かれています。こんなになった・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・という古い言葉はその味わいをいったものであろう。 アメリカの映画俳優たちのように、夫婦の離合の常ないのはなるほど自由ではあろうが、夫婦生活の真味が味わえない以上は人生において、得をしているか、失っているかわからない。色情めいた恋愛の陶酔・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ この意味においては、書物とは見ざるを見、味わわざるを味わい、研めざるを知得するためにあるものである。それどころではない、思わざるを思うためにさえもあるものである。すなわち、自己独りではとうてい想望できなかったような高い、美しいイデーや・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ お菜は、ふのような乾物類ばかりで、たまにあてがわれる肉類は、罐詰の肉ときている彼等は、不潔なキタない豚からまッさきにクン/\した生肉の匂いと、味わいを想像した。そして、すぐ、愉快な遊びを計画した。 五分間も経った頃、六七名の兵士た・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 彼等は、愉快な、幸福な気分を味わいながら駐屯地へ向って引き上げて行った。 大隊長は、司令部へ騎馬伝令を発して、ユフカに於けるパルチザンを残さず殲滅せしめたと報告した。彼は、部下よりも、もっと精気に満ちた幸福を感じていた。背後の村に・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・その二、三をあげれば、天寿をまっとうして死ぬのでなく、すなわち、自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾その他の原因から夭折し、当然うけるであろう、味わうであろう生を、うけえず、味わいえないのをおそれるのである。来世の迷信から、その妻子・眷属に・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫