・・・ 私は雨に濡れながら、覚束ない車夫の提灯の明りを便りにその標札の下にある呼鈴の釦を押しました。すると間もなく戸が開いて、玄関へ顔を出したのは、ミスラ君の世話をしている、背の低い日本人の御婆さんです。「ミスラ君は御出でですか。」「・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・ どこを探しても呼鈴が見当らない。 二三度手を敲いてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が大分に遠い。座敷の口へ出て、敲いて、敲きながら廊下をまた一段下りた。「これは驚いた。」 更に応ずるものがなかったのである。・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ すると一人の男、外套の襟を立てて中折帽を面深に被ったのが、真暗な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴を押した。 内から戸が開くと、「竹内君は来てお出ですかね」と低い声の沈重いた調子で訊ねた。「ハア、お出で御座います・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・かけちごうて逢わざりければ俊雄をそれとは思い寄らず一も二も明かし合うたる姉分のお霜へタッタ一日あの方と遊んで見る知恵があらば貸して下されと頼み入りしにお霜は承知と呑み込んで俊雄の耳へあのね尽しの電話の呼鈴聞えませぬかと被せかけるを落魄れても・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私は汗を拭い、ちょっと威容を正して門をくぐり、猛犬はいないかと四方八方に気をくばりながら玄関の呼鈴を押した。女中さんがあらわれて、どうぞ、と言う。私は玄関にはいる。見ると、玄関の式台には紋服を着た小坂吉之助氏が、扇子を膝に立てて厳然と正座し・・・ 太宰治 「佳日」
・・・なかなかハイカラな構えの家だったので、男爵には、一驚だった。呼鈴を押す。女中が出て来る。ばかなやつだな、役者になったからって、なにも、こんなにもったいぶることはない、と男爵は、あさましく思った。「坂井ですが。」 けばけばしいなりをし・・・ 太宰治 「花燭」
・・・「君、そこに呼鈴があるじゃないか。」「あ、そうか。僕の家だったころには、こんなものなかった。」 ふたり、笑った。 その夜、私は、かなり酔った。しかも、意外にも悪く酔った。子守唄が、よくなかった。私は酔って唄をうたうなど、絶無・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・ 私は勇気を出して、そのお宅の呼鈴を押した。女中が出て来た。あのひとは、いらっしゃらないという。「お芝居ですか?」「ええ。」 私は嘘をついた。いや、やっぱり、嘘ではない。私にとって、現実の事を言ったのだ。「それならすぐお・・・ 太宰治 「フォスフォレッスセンス」
・・・玄関の呼鈴を押したら、出て来たのは、あのひとである。先日のモデルである。白いエプロンを掛けている。「あなたは?」私は瞬時、どぎまぎした。「はあ。」とだけ答えて、それから、くすくす笑い、奥に引っ込んでしまった。「おや、まあ。」と言・・・ 太宰治 「リイズ」
・・・入口で古風な呼鈴の紐を引くと、ひとりで戸があいた。狭い階段をいくつも上っていちばん高い所にB君の質素な家庭があった。二間だけの住居らしい。食堂兼応接間のようなところへ案内された。細君は食卓に大きな笊をのせて青い莢隠元をむしっていた。 お・・・ 寺田寅彦 「異郷」
出典:青空文庫