・・・その晩はおげんは手が震えて、折角の馳走もろくに咽喉を通らなかった。 熊吉は黙し勝ちに食っていた。食後に、おげんは自分の側に来て心配するように言う熊吉の低い声を聞いた。「姉さん、私と一緒にいらっしゃい――今夜は小間物屋の二階の方へ泊り・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・と云って、突いて癒った咽喉の傷などを、出して見せた。「何しろどうもこの傷の跡があるんだからね」なぞと云って、頻りにその傷の跡を気にしていた。戸川君と一緒に訪ねた時には、何でもエマルソンの本が出来た時で、細君が民友社から届いた本を持って来て、・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・電柱に抱きつくようにして寄りかかり、ぜいぜい咽喉を鳴らしながら一休みしていると、果して、私のまえをどんどん走ってゆく人たちは、口々に、柳町、望富閣、と叫び合っているのである。私は、かえって落ちついた。こんどは、ゆっくり歩いて、県庁のまえまで・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・手術して二日目に、咽喉から血塊がいくらでも出た。前からの胸部の病気が、急に表面にあらわれて来たのであった。私は、虫の息になった。医者にさえはっきり見放されたけれども、悪業の深い私は、少しずつ恢復して来た。一箇月たって腹部の傷口だけは癒着した・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・その音源はお園からは十メートル近くも離れた上手の太夫の咽喉と口腔にあるのであるが、人形の簡単なしかし必然的な姿態の吸引作用で、この音源が空中を飛躍して人形の口へ乗り移るのである。この魔術は、演技者がもしも生きた人間であったら決してしとげられ・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・それが通り過ぎてからしばらくすると、今度は宿の浴室のほうでだれかガーガーゲーゲーと途方もない野蛮な声を出して咽喉や舌のつけ根の掃除をする浴客がある。水鶏やほととぎすの鳴き声がいかにも静寂であるのに引きかえて、この人間の咽喉をせんたくする音が・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・ 彼女はあいにく二三日鼻や咽喉を悪くして、呼吸が苦しそうであった。腹工合もわるいと言って、一日何んにも食べずに中の間で寝ていたが、昨夜按摩を取ったあとで、いくらか気分がよくなったので、茶の間へ出てきて、思いだしたように御飯を食べていた。・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・それはこの咽喉がかわくような気持から三吉をすくってくれるのであったが、とたんに、三吉はあわてだす。昨夜から考えていること、彼女にむかって、何と最初にいいだせばいいだろう? ――深水から話があって、きょう三吉は彼女と「見合」するのである。・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 目を瞠るまでもなく、つい眼前に、高らかに、咽喉ふくらまして唄っている裸形のうちに、彼が最愛の息子利助がいたのだ! 利平は、呆然としてしまった。 そんな筈はない……確かに会社の中へ、トラックで送り込んだ筈の利助だったのが……しかし、・・・ 徳永直 「眼」
・・・阿呆陀羅経を聞き飽きた参詣戻りの人たちが三人四人立止る砂利の上の足音を聞分けて、盲目の男は懐中に入れた樫のばちを取り出し、ちょっと調子をしらべる三の糸から直ぐチントンシャンと弾き出して、低い呂の声を咽喉へと呑み込んで、 あきイ――の夜・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫