・・・彼はそれを聞いている中に、自らな一味の哀情が、徐に彼をつつんで来るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透って来る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。――内蔵助は、青空に象嵌をしたような、・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・されどかれも年若き男なり、時にはわが語る言葉の端々に喚びさまされて旧歓の哀情に堪えやらず、貴嬢がこの姿をかき消すこともあれど、要するに哀れの少女よとかこつ言葉は地震の夜の二郎にはあらず、燃ゆる恋はいつしか静かなる憐みと変われり。されど貴嬢、・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 暫時無言で二人は歩いていたが、大友は斯く感じると、言い難き哀情が胸を衝いて来る。「然しね、お正さん、貴女も一旦嫁いだからには惑わないで一生を送った方が可しいと僕は思います。凡て女の惑いからいろんな混雑や悲嘆が出て来るものです。現に・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・そしてその夜、うすいかすみのように僕の心を包んだ一片の哀情は、年とともに濃くなって、今はただその時の僕の心持ちを思い起こしてさえ堪えがたい、深い、静かな、やる瀬のない悲哀を覚えるのである。 その後徳二郎は僕の叔父の世話で立派な百姓になり・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・何心なくながめてありしわれは幾百年の昔を眼前に見る心地して一種の哀情を惹きぬ。船回りし時われらまた乗りて渡る。中流より石級の方を望めば理髪所の燈火赤く四囲の闇を隈どり、そが前を少女の群れゆきつ返りつして守唄の節合わするが聞こゆ。』 その・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・そのまま三人の者の足音の聞こえなくなるまで対岸を白眼んでいたが、次第に眼を遠くの禿山に転じた、姫小松の生えた丘は静に日光を浴びている、その鮮やかな光の中にも自然の風物は何処ともなく秋の寂寥を帯びて人の哀情をそそるような気味がある。背の高い骨・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・『そこで僕は今夜のような晩に独り夜ふけて燈に向かっているとこの生の孤立を感じて堪え難いほどの哀情を催して来る。その時僕の主我の角がぼきり折れてしまって、なんだか人懐かしくなって来る。いろいろの古い事や友の上を考えだす。その時油然として僕・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・実際子供やヒステリックな婦人などの場合では、泣いているかと思うと笑っていて、どちらだかわからない場合が多いし、また正常なおとなでも歓楽きわまって哀情を生じたり、愁嘆の場合に存外つまらぬ事で笑いだすような一見不思議な現象がしばしば見らるるので・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫