・・・ 銀灰色の靄と青い油のような川の水と、吐息のような、おぼつかない汽笛の音と、石炭船の鳶色の三角帆と、――すべてやみがたい哀愁をよび起すこれらの川のながめは、いかに自分の幼い心を、その岸に立つ楊柳の葉のごとく、おののかせたことであろう。・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・はほぼ同感であったが、私が日本の俗曲では何といっても長唄であると長唄礼讃を主張すると、長唄は奥さん向きの家庭音曲であると排斥して、何といっても隅田河原の霞を罩めた春の夕暮というような日本民族独特の淡い哀愁を誘って日本の民衆の腸に染込ませるも・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・信吉はそれを見ると、一種の哀愁を感ずるとともに、「もっとにぎやかな町があるのだろう。いってみたいものだな。」と、思ったのでした。 村に近い、山の松林には、しきりにせみが鳴いていました。信吉は、池のほとりに立って、紫色の水草の花が、ぽっか・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・――赤い日傘――白い旗――黒い人の一列――山間の村でこういう景色を見ることは、さながら印象主義の画を見るような、明るいうちに哀愁が感じられた。 夕暮方、温泉場の町を歩いていると、夫婦連の西洋人を見た。男は肥えて顔が赤かった。女は痩せて丈・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・ が、その小蒸汽の影も見えなくなって、河岸縁に一人取残された自分の頼りない姿に気がつくと、私はきゅうに何とも言えぬ寂しい哀愁を覚えた。そうしてしみじみ故郷が恋しかった。 * * * 万年屋の女房はすっかり・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、眼鏡がみんな遮ってしまう。それに、目でお話をするということも、可笑しなくらい出来ない。 眼鏡は、お化け。 自分で、いつも自分の眼鏡が厭だ・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・私は、貴下の無学あるいは文章の拙劣、あるいは人格の卑しさ、思慮の不足、頭の悪さ等、無数の欠点をみとめながらも、底に一すじの哀愁感のあるのを見つけたのです。私は、あの哀愁感を惜しみます。他の女の人には、わかりません。女のひとは、前にも申しまし・・・ 太宰治 「恥」
・・・のだ、生かして置きたい、生かして、いつまでも自分の傍にいさせたい、どんなに醜い顔になってもかまわぬ、私はラプンツェルを好きなのだ、不思議な花、森の精、嵐気から生れた女体、いつまでも消えずにいてくれ、と哀愁やら愛撫やら、堪えられぬばかりに苦し・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・こう思うと、その青年、田舎に埋もれた青年の志ということについて、脈々とした哀愁が私の胸を打った。つづいて、『親々と子供』の中の墓場のシーンが眼に浮かんできた。バザロフとはまるで違ってはいるけれども……。 私は青年――明治三十四五年から七・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・とどなるのをきっかけに、画面の情調が大きな角度でぐいと転回してわき上がるように離別の哀愁の霧が立ちこめる。ここの「やま」の扱いも垢が抜けているようである。あくどく扱われては到底助からぬようなところが、ちょうどうまくやれば最大の効果を上げうる・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
出典:青空文庫