・・・私は先達ても今日の通り、唯一色の黒の中に懶い光を放っている、大きな真珠のネクタイピンを、子爵その人の心のように眺めたと云う記憶があった。……「どうです、この銅版画は。築地居留地の図――ですか。図どりが中々巧妙じゃありませんか。その上明暗・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・章魚のような大きな頭だけが彼れの赤坊らしい唯一つのものだった。たった半日の中にこうも変るかと疑われるまでにその小さな物は衰え細っていた。仁右衛門はそれを見ると腹が立つほど淋しく心許なくなった。今まで経験した事のないなつかしさ可愛さが焼くよう・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。 その考察が、いかなる方面にいかにして始めらるべきであるか。それはむろん人々各自の自由である。しかしこの際において、我々青年が過去においていかにその「自己」を主・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・何為か、その上、幼い記憶に怨恨があるような心持が、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりした眉のない顔を上げて、じろりと額で見上げたのを、織次は屹と唯一目。で、知らぬ顔して奥へ通った。「南無阿弥陀仏。」 と折・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・と関係なきものの如くに思って居る、欧米あたりから持ってきたものであれば、頗る下等な理窟臭い事でも、直ぐにどうのこうのと騒ぐのである、修養を待ず直ぐ出来るような事は何によらず浅薄なものに極って居る、吾邦唯一の美習として世界に誇るべき立派な遊技・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・それ故に医薬よりは迷信を頼ったので、赤い木兎と赤い達磨と軽焼とは唯一無二の神剤であった。 疱瘡の色彩療法は医学上の根拠があるそうであるが、いつ頃からの風俗か知らぬが蒲団から何から何までが赤いずくめで、枕許には赤い木兎、赤い達磨を初め赤い・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 併し、如上の事だけに満足が出来なく、自己の存在を明にする唯一の意識、即ち感覚そのものに疑を挾む事も出来得るのである。只だ人生の保証として、又事実として自分の有して居る感覚に何程の力があるか、此れを考えた時に吾々は斯く思わずには居られな・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・月給袋のなかの金が唯一の所持金だったが、だんだんにそれもなくなって行った。半分は捨鉢な気持で新聞広告で見た霞町のガレーヂへ行き、円タク助手に雇われた。ここでは学歴なども訊かれず、かえってさばさばした気持だった。しかし、一日に十三時間も乗り廻・・・ 織田作之助 「雨」
・・・、外に村の者、町の者、出張所の代診、派出所の巡査など五六名の者は笊碁の仲間で、殊に自分と升屋とは暇さえあれば気永な勝負を争って楽んでいたのが、改築の騒から此方、外の者はともかく、自分は殆ど何より嗜好、唯一の道楽である碁すら打ち得なかったので・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・いと高く、美しき思想もそれが思想である限りは、「なくてならぬ究竟唯一」のものではない。書物は究竟者そのものを与え得ない。それは仏教では「絶学無為の真道人」と呼ぶのである。学を絶って馳求するところなき境地である。「マルタよ、マルタよ、汝思ひわ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
出典:青空文庫