・・・そこではお律がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうな唸り声を洩らしているらしかった。「お母さんも今日は楽じゃないな。」 独り言のような洋一の言葉は、一瞬間彼等親子の会話を途切らせるだけの力があった。が、お絹はすぐに居ずまいを直すと、・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・が、彼の食いしばった歯の間を洩れる声には、ただ唸り声と云う以上に、もう少し複雑な意味がある。と云うのは、彼は独り肉体的の苦痛のためにのみ、呻吟していたのではない。精神的な苦痛のために――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の変化のために、・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 何時間かの後、この歩兵陣地の上には、もう彼我の砲弾が、凄まじい唸りを飛ばせていた。目の前に聳えた松樹山の山腹にも、李家屯の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙を揚げた。その土煙の舞い上る合間に、薄紫の光が迸るのも、昼だけに、一層悲壮だった。・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・白は凄じい唸り声を洩らすと、きりりとまた振り返りました。「きゃあん。きゃあん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」 この声はまた白の耳にはこう云う言葉にも聞えるのです。「きゃあん。きゃあん。臆病ものになるな! き・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・荒物屋を兼ねた居酒屋らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声がもれる外には、真直な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけが、けうとい唸りを立てていた。彼れと馬と妻とは前の通りに押黙って歩いた。歩いては時折り思い出したよう・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 点点としているが、竹ごまのように、一たび糸を巻いて打っ放せば、ウアーンと唸り出すような力だ。 この力が千日前を、心斎橋を、道頓堀を、新世界を復興させたのだ。――と、しかし私はあわてているわけではない。なるほど、これらの盛り場は復興・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・しかし速力が緩み、風の唸りが消え、なだらかに橇が止まる頃には、それが空耳だったという疑惑が立罩める。「どうだったい」 晴ばれとした少年の顔からは、彼女はいずれとも決めかねた。「もう一度」 少女は確かめたいばかりに、また汗を流・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・そうだ『玉三』でも唸りながら書こう。面白い! ――昼飯を済まして、自分は外出けようとするところへ母が来た。母が来たら自分の帰るまで待って貰う筈にして置いたところへ。 色の浅黒い、眼に剣のある、一見して一癖あるべき面魂というのが母の人・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・声を立てると山に響いて山が唸ります、黙って釣っていると森としています。 ある日ふたりは余念なく釣っていますと、いつの間にか空が変って、さっと雨が降って来ました。ところがその日はことによく釣れるので二人とも帰ろうと言わないのです。太い雨が・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ も一発、弾丸が、彼の頭をかすめて、ヒウと唸り去った。「おい、坂本! おい!」 彼は呼んでみた。 軍服が、どす黒い血に染った。 坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。 内地を出発して、ウラジオストックへ着き、上陸し・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
出典:青空文庫