・・・呉清輝と田川とは、傷の痛さに唸りながら、半ば、うつらうつらしつつ寝台に横たわっていた。おやじは、いきなり、ペーチカの横の水汲みの石油鑵を蹴とばした。「この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促の手紙が来とるんだぞ!」 クヅネツォフからの・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 兵士の銃口からは、つづけて弾丸が唸り出た。「撃てッ! パルチザンがいッくらでもこっちへ逃げ出して来るじゃないか。うてッ! うてッ!」 兵士は撃った、あまりにはげしい射撃に銃身が熱くなった。だが弾丸は、悉く、一里もさきの空へ向っ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・弾丸が唸り去ったあとで頸をすくめるように、そのたび彼等は、頸をすくめた。 松ツァンは、二本の松葉杖を投げ棄ててタガネと槌を取った。彼は、立って仕事が出来なかった。で、しゃがんだ。摺古木になった一本の脚のさきへ痛くないようにボロ切れをあて・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・とヒラリと素裸になって、寝衣に着かえてしまって、 やぼならこうした うきめはせまじ、と無間の鐘のめりやすを、どこで聞きかじってか中音に唸り出す。 幸田露伴 「貧乏」
・・・大なる石は虚空より唸りの風音をたて隕石のごとく速かに落下し来り直ちに男女を打ちひしぎ候。小なるものは天空たかく舞いあがり、大虚を二三日とびさまよひ候。」 私はそれを一字一字清書しながら、天才を実感して戦慄した。私のこれまでの生涯に於・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・百万の羽ばたきの音は、真昼のあぶの唸りに似ていた。これは合戦をしているのであろう。翼の粉末が、折れた脚が、眼玉が、触角が、長い舌が、降るように落ちる。 食べたいものは、なんでも、と言われて、あずきかゆ、と答えた。老人が十八歳で始めて小説・・・ 太宰治 「逆行」
・・・日は高くあがっていて、凧の唸りがいくつも聞えた。私はむっくり起きて、前夜の原稿を読み直した。やはり傑作であった。私はこの原稿が、いますぐにでも大雑誌に売れるような気がした。その新進作家が、この一作によって、いよいよ文運がさかんになるぞと考え・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・ メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・私は十時ころぐっすり寝込んだんですが、ふと目を覚ますと、唸り声がする、苦しい苦しいという声がする。どうしたんだろう、奥には誰もいぬはずだがと思って、不審にしてしばらく聞いていたです。すると、その叫び声はいよいよ高くなりますし、誰か来てくれ!・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・辰さんは小声で義太夫を唸りながら、あらの始末をしている。女中部屋の方では陽気な笑声がもれる。戸外の景色に引きかえて此処はいつものように平和である。 嵐の話になって婆さんは古い記憶の中から恐ろしくも凄かった嵐を語る。辰さんが板敷から相槌を・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫