・・・実際善人か悪人か分らない。 私は妙な性質で、寄席興行その他娯楽を目的とする場所へ行って坐っていると、その間に一種荒涼な感じが起るんです。左右前後の綺羅が頭の中へ反映して、心理学にいわゆる反照聯想を起すためかとも思いますが、全くそうでもな・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・他意なく人のために尽さんとするの点において善人である。ただ自他の関係を知らず、眼を全局に注ぐ能わざるがため、わが縄張りを設けて、いい加減なところに幅を利かして満足すべきところを、足に任せて天下を横行して、憚からぬのが災になる。人が咎めれば云・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・その問ははなはだ簡単でただ何方が善人で何方が悪人かと云うだけなんです。私から云えば何方も人間にはなっていない、善人にも悪人にもなっておらない。よしなっていたって、幼稚にしろ筋は子供の頭より込入っているからそう一口に判断を下してやる訳には行か・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・けれども諸君のためを思い、また社のためを思い、と云うと急に偽善めきますが、まあ義理やら好意やらを加味した動機からさっそく出て来たとすればやはり幾分か善人の面影もある。有体に白状すれば私は善人でもあり悪人でも――悪人と云うのは自分ながら少々ひ・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・そもそもこのペンすなわち内の下女なるペンになぜ我輩がこの渾名を呈したかと云うと、彼は舌が短かすぎるのか長すぎるのか呂律が少々廻り兼ねる善人なる故に I beg your pardon と云う代りにいつでも bedge pardon と云うか・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・それをかえるために私達が集まってこういうようにお互いに話をいたしますけれども、人間性というものは徹底的な善人もありませんし、徹底的な悪人もないのです。もし徹底的な善人と徹底的な悪人しかないならば、この人類は一つの小説も書きません。なぜならば・・・ 宮本百合子 「幸福の建設」
・・・大谷尊由に対談して、長谷川「歎異鈔なんか拝読いたしますと『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』と書いてありますから、吾々共産党だった者でも努力をすれば救われるでしょうか」という質問を出している。この実例は、文化面においてないがしろにで・・・ 宮本百合子 「新年号の『文学評論』その他」
・・・ ゴーリキイにはこれらの人々が「善人なのか、悪人なのか、平和好きなのか、悪戯好きなのか、又どうしてこんなに酷い、飽くことない意地悪なのか、どうしてこう意久地なくおとなしいのか」分らない。そして、この如何にもおとなしく、見るも気の毒な程素・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・この危険から身を防ぐためには――梶はその方法をも考えてみたが、すべての人間を善人と解さぬ限り、何もなかった。 しかし、このような暗澹とした空気に拘らず、栖方の笑顔を思い出すと、光がぽッと射し展いているようで明るかった。彼の表情のどこ一点・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫