・・・ 思うに、ある年のある日、旅人は、夕日に彩られた街を喘ぎながら歩いていたであろう。そして、胸に苦しみを覚えた刹那に、どちらかの空を仰いで、その地平線のはてに、いまも静かに存在しているであろう故郷の風景を眼に描いたにちがいない。そして、自・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
・・・ 自分らは汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天ぎわの空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上を喘ぎ喘ぎ辿ってゆく。苦しいか? どうして! 身うちには健康がみちあふれている。 長堤三里の間、ほとんど人影を見ない。農家・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・乏な大工の家に生れ、気の弱い、小鳥の好きな父と、痩せて色の黒い、聡明な継母との間で、くるしんで育ち、とうとう父母にそむいて故郷から離れ、この東京に出て来て、それから二十年間お話にも何もならぬ程の困苦に喘ぎ続けて来たという事、それも愚痴になり・・・ 太宰治 「風の便り」
真夏の正午前の太陽に照りつけられた関東平野の上には、異常の熱量と湿気とを吸込んだ重苦しい空気が甕の底のおりのように層積している。その層の一番どん底を潜って喘ぎ喘ぎ北進する汽車が横川駅を通過して碓氷峠の第一トンネルにかかるこ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・殺した罪が亡びるようにと、南無大師遍照金剛と吠えながら駈け廻った、八十七個所は落ちなく巡って今一個所という真際になって気のゆるんだ者か、そのお寺の門前ではたと倒れた、それを如何にも残念と思うた様子で、喘ぎ喘ぎ頭を挙げて見ると、目の前に鼻の欠・・・ 正岡子規 「犬」
・・・自分は人力車で神戸の病院へ行くつもりであったから、肩には革包をかけ、右の手にはかなり重い行李を提げ、左の手は刀を杖について、喘ぎ喘ぎそろそろと歩行いて見たが、歩行くたびに血を咯くので、砂の上へ行李を卸して腰かけて休んで居た。声を揚げて人を呼・・・ 正岡子規 「病」
・・・企業整備という名でいわれたその淘汰は、喘ぎながらも便乗していた街の小工場、小ブローカーをつぶして、より大きい設備と資本に整備した。戦争が進むにつれ、規模が大きくなるにつれ、戦争で直接儲けている日本の資本形態は、より大資本の形にすすみ、そのこ・・・ 宮本百合子 「便乗の図絵」
・・・山路になりてよりは、二頭の馬喘ぎ喘ぎ引くに、軌幅極めて狭き車の震ること甚しく、雨さえ降りて例の帳閉じたれば息籠もりて汗の臭車に満ち、頭痛み堪えがたし。嶺は五六年前に踰えしおりに似ず、泥濘踝を没す。こは車のゆきき漸く繁くなりていたみたるならん・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫