・・・暫くは何とも答えずに、喘ぐような声ばかり立てていました。が、妙子は婆さんに頓着せず、おごそかに話し続けるのです。「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命が惜しかったら、明日とも言わず今夜の内に、早速この女の子を返すが好・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・――母は上眼にその盆を見ながら、喘ぐように切れ切れな返事をした。「昨夜、あんまり、苦しかったものですから、――それでも今朝は、お肚の痛みだけは、ずっと楽になりました。――」 父は小声に看護婦へ云った。「少し舌がつれるようですね。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・もっともこの声と云うのも、何と云っているのだか、言葉は皆目わからないのですが、とにかく勢いの好い泰さんの声とは正反対に、鼻へかかった、力のない、喘ぐような、まだるい声が、ちょうど陰と日向とのように泰さんの饒舌って行く間を縫って、受話器の底へ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・水に拙いのであろう。喘ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形の一術であろうも計られぬ。「ばか。」 投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。 早く解いて流した紅の腹帯は、二重三重にわが・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・洪水には荒れても、稲葉の色、青菜の影ばかりはあろうと思うのに、あの勝山とは、まるで方角が違うものを、右も左も、泥の乾いた煙草畑で、喘ぐ息さえ舌に辛い。 祖母が縫ってくれた鞄代用の更紗の袋を、斜っかいに掛けたばかり、身は軽いが、そのかわり・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・雲は焚け、草は萎み、水は涸れ、人は喘ぐ時、一座の劇はさながら褥熱に対する氷のごとく、十万の市民に、一剤、清涼の気を齎らして剰余あった。 膚の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、拳って座中の明星と称えられた村井紫玉が、「まあ……前刻・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 亡霊の妄想を続ける根気も尽き、野山への散歩も廃めて、彼は喘ぐような一日一日を送って行った。ともすると自然の懐ろは偉大だとか、自然が美しいとかいって、それが自分とどうしたとかいうでもない、埒もない感想に耽りたがる自分の性癖が、今さらに厭・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・もう分り切ってるじゃないか、それによし分らないことがあったにした所で、苦しく喘ぐ彼女の声を聞いて、それでどうなると云うんだ。 だが、私は彼女を救い出そうと決心した。 然し救うと云うことが、出来るだろうか? 人を救うためにはが唯一の手・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ おふくろが、喘ぐように云ったのと、吉田が、「しっ」と押し殺すような声で云ったのと同時であった。「誰だい?」 彼は、大きな声で呶鳴った。「中村だがね、ちょっと署まで来て貰いたいんだ」――誰だい――と呼ぶ吉田の声が、鋭・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・二階はその一室しかなくて、ひろ子は、片手にタオルを握ったなり、乾いた空気に喘ぐような思いで仕事をした。 その座敷のそとに物干がついていた。物干に、かなり大きい風知草の鉢が置かれてある。それは一九四一年の真夏のことであった。その年の一月か・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫