・・・左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を繰返していた。 一行四人は兵衛の妹壻が浅野家の家中にある事を知っていたから、まず文字が関の瀬戸を渡って、中国街道をはるばると広島の城下まで上って行った。が、そこに滞在して、・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・それは悲しさの涙でもあり喜びの涙でもあったが、同時にどちらでもなかった。彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くし出すと、妙に胸がわくわくして来て、急に深淵のような深い静かさが心を襲った。クララは明かな意識の中にありながら、凡てのものが夢のよう・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・しかしそれだけでは自分の喜びと、自分の恩に感ずる心とを表わすことが出来ぬと思った。それでふいと思い出したことがある。それは昔余所の犬のするのを見て、今までは永く忘れて居たことであった。クサカはそれをやる気になって、飛びあがって、翻筋斗をして・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・もしもその際に、近代人の資格は神経の鋭敏という事であると速了して、あたかも入学試験の及第者が喜び勇んで及第者の群に投ずるような気持で、その不健全を恃み、かつ誇り、更に、その不健全な状態を昂進すべき色々の手段を採って得意になるとしたら、どうで・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・何しろ貴方、先の二十七年八年の日清戦争の時なんざ、はじめからしまいまで、昨日はどこそこの城が取れた、今日は可恐しい軍艦を沈めた、明日は雪の中で大戦がある、もっともこっちがたが勝じゃ喜びなさい、いや、あと二三ヶ月で鎮るが、やがて台湾が日本のも・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・然し、いよいよ僕等までが召集されることになって、高須大佐のもとに後備歩兵聨隊が組織され、それが出征する時、待ちかまえとった大石軍曹も、ようよう附いてくことが出来る様になったんで、その喜びと云うたら、並み大抵ではなかった。どうせ、無事に帰るつ・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・しかしながら私はいつでもそれを見て喜びます。その女は信者でも何でもない。毎月三日月様になりますと私のところへ参って「ドウゾ旦那さまお銭を六厘」という。「何に使うか」というと、黙っている。「何でもよいから」という。やると豆腐を買ってきまして、・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・…… 子供から別れて、独り、さびしく海の中に暮らすということは、このうえもない悲しいことだけれど、子供がどこにいても、しあわせに暮らしてくれたなら、私の喜びは、それにましたことはない。 人間は、この世界の中で、いちばんやさしいものだ・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・あほぬかせと私は本当にしなかったが、翌る日おきみ婆さんがいそいそとやってきて言うのには、喜びイ、喜びイ、とうとう追いだされよったぜ。浜子は継子の私を苛めた罰に父に追いだされてしもうたと言うのですが、私は父がそんなに自分のことを思ってくれてい・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・とにかく彼は、つねに緊張した活きた気持に活きるということの歓びを知ってる人間だ。そしてそのために、あるいはある場合には多少のやりすぎがあるかもしれない。しかしそれでもまだ自分のような生きながらの亡者と較べて、どんなに立派で幸福な生活であるか・・・ 葛西善蔵 「遁走」
出典:青空文庫