・・・何でもこの記事に従えば、喪服を着た常子はふだんよりも一層にこにこしていたそうである。ある上役や同僚は無駄になった香奠を会費に復活祝賀会を開いたそうである。もっとも山井博士の信用だけは危険に瀕したのに違いない。が、博士は悠然と葉巻の煙を輪に吹・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・かけては他の道に立ち帰り、他の道に足を踏み入れてなお初めの道を顧み、心の中に悶え苦しむ人はもとよりのこと、一つの道をのみ追うて走る人でも、思い設けざるこの時かの時、眉目の涼しい、額の青白い、夜のごとき喪服を着たデンマークの公子と面を会わせて・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・而もこの声楽家は、許嫁との死別の悲しみに堪えずしてその後間もなく死んでしまったが、許嫁の妹は、世間の掟に従って、忌の果てには、心置きなく喪服を脱いだのであった。 これは、私の文章ではありません。辰野隆先生訳、仏人リイル・アダン氏の小話で・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・見ると塔門の前に一人の女が黒い喪服を着て悄然として立っている。面影は青白く窶れてはいるが、どことなく品格のよい気高い婦人である。やがて錠のきしる音がしてぎいと扉が開くと内から一人の男が出て来て恭しく婦人の前に礼をする。「逢う事を許されて・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ ステーション前のホテルのなかも物音がなくてカーテンのかげに喪服の婦人の姿があるばかりである。 人通りというものも殆どない。明るい廃墟の市の午後の街上を疾走するのは我々をのせた自動車ぎりであった。ソンムとヴェルダンとはヨーロッパ大戦・・・ 宮本百合子 「女靴の跡」
・・・自分を死んだものとして無責任に片づけ、而も如何にも儀式ばった形式で英霊の帰還だとか靖国神社への合祀だとか、心からその人の死を哀しむ親や兄弟或いは妻子までを、喪服を着せて動員し、在郷軍人は列をつくり、天皇の親拝と大きく写真まで撮られたその自分・・・ 宮本百合子 「青年の生きる道」
・・・ナチス・ドイツは、女性の歎きと訴え、人民全般の悲傷の思いをふみにじって、戦争中、婦人が喪服をつけることを禁止した。ドイツの人々が、日に日に増大する黒衣の女性をみて、ナチス政権がしかけた戦争が、そのようにドイツ民族を殺しつつあることを知るのを・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
・・・早い内に殿も身に喪服を着て、「どんな様子だい、いくら悲しいと云ってもあんまり力をおとさないでおくれ」 斯う云われると今更のように涙が流れ出して云い合せに女は泣き伏した。 持仏の間の中では相変らず鐘の声と経の声がきこえる。「誰・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・これら喪服をつけて立つ婦人代議士は、再び戦争というもののない世界のために協力し、参加しようとして立っている。裂かれた胸と血涙とをとおして、平和をもたらす決心かたく、女性の叫びとして立ったのである。 手にとったばかりの参政権を、使うより前・・・ 宮本百合子 「人間の道義」
・・・その代議士の大部分が、この度の大戦による未亡人であるということは、婦人と政治の問題について、深く考えさせるところがあると思う。喪服を着て立ったフランスの婦人代議士たちは、その胸の中にどんな希いを持っているのだろう。彼女たちの希望はよくわかる・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫