・・・ やがてあの魔法使いが、床の上にひれ伏したまま、嗄れた声を挙げた時には、妙子は椅子に坐りながら、殆ど生死も知らないように、いつかもうぐっすり寝入っていました。 五 妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼に・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 彼の言葉は一度途絶えてから、また荒々しい嗄れ声になった。「お前だろう。誰だ、お前は?」 もう一人の陳彩は、しかし何とも答えなかった。その代りに眼を挙げて、悲しそうに相手の陳彩を眺めた。すると椅子の前の陳彩は、この視線に射すくま・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・が、不幸にしてそれが一度彼の口を出ると、何の意味も持っていない、嗄れた唸り声に変ってしまう。それほどもう彼は弱ってでもいたのであろう。「私ほどの不幸な人間はない。この若さにこんな所まで戦に来て、しかも犬のように訳もなく殺されてしまう。そ・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ハンケチを巻き通した喉からは皺嗄れた声しか出なかった。働けば病気が重る事は知れきっていた。それを知りながらU氏は御祈祷を頼みにして、老母と二人の子供との生活を続けるために、勇ましく飽くまで働いた。そして病気が重ってから、なけなしの金を出して・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・人ありてその齢を問いしに、渠は皺嗄れたる声して、七十八歳と答えき。 盲にして七十八歳の翁は、手引をも伴れざるなり。手引をも伴れざる七十八歳の盲の翁は、親不知の沖を越ゆべき船に乗りたるなり。衆人はその無法なるに愕けり。 渠は手も足も肉・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・、燈をかかげてこなたの顔を照らしぬ。丸き目、深き皺、太き鼻、逞ましき舟子なり。「源叔父ならずや」、巡査は呆れし様なり。「さなり」、嗄れし声にて答う。「夜更けて何者をか捜す」「紀州を見たまわざりしか」「紀州に何の用ありてか・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 嗄れし声にて、よき火やとかすかに叫びつ、杖なげ捨てていそがしく背の小包を下ろし、両の手をまず炎の上にかざしぬ。その手は震い、その膝はわななきたり。げに寒き夜かな、いう歯の根も合わぬがごとし。炎は赤くその顔を照らしぬ。皺の深さよ。眼いた・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・ 彼は嗄れてはいるが、よくひびく、量の多い声を持っていた。彼の喋ることは、窓硝子が振える位いよく通った。 彼は、もと大隊長の従卒をしていたことがあった。そこで、将校が食う飯と、兵卒のそれとが、人間の種類が異っている程、違っているのを・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ ふと、嗄れた、太い、力のある声がした。聞き覚えのある声だった。それは、助役の傍に来て腰掛けている小川という村会議員が云ったのだ。「はあ。」と、源作は、小川に気がつくと答えた。小川は、自分が村で押しが利く地位にいるのを利用して、貧乏・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・顔が黒く日に焦げて皺がよっている百姓の嗄れた量のある声が何か答えているのがこっちまで聞えてきた。その声は、ほかの声を消してしまうように強く太くひびいた。 掠めたものを取りあっていた兵士達は、口を噤んで小舎の方を見た。十人ばかりの百姓が村・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
出典:青空文庫