・・・真夏の日の午すぎ、やけた砂を踏みながら、水泳を習いに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにおいも、今では年とともに、親しく思い出されるような気がする。 自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと言えば、泥濁りのした・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・それを嗅ぐと彼れは始めて正気に返って改めて自分の小屋を物珍らしげに眺めた。そうなると彼れは夢からさめるようにつまらない現実に帰った。鈍った意識の反動として細かい事にも鋭く神経が働き出した。石炭酸の香は何よりも先ず死んだ赤坊を彼れに思い出さし・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ その燃えさしの香の立つ処を、睫毛を濃く、眉を開いて、目を恍惚と、何と、香を散らすまい、煙を乱すまいとするように、掌で蔽って余さず嗅ぐ。 これが薬なら、身体中、一筋ずつ黒髪の尖まで、血と一所に遍く膚を繞った、と思うと、くすぶりもせず・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 恐しい鼻呼吸じゃあないか、荷車に積んだ植木鉢の中に突込むようにして桔梗を嗅ぐのよ。 風流気はないが秋草が可哀そうで見ていられない。私は見返もしないで、さっさとこっちへ通抜けて来たんだが、何だあれは。」といいながらも判事は眉根を寄せ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・淡泊な味に湯だった笹の香を嗅ぐ心持は何とも云えない愉快だ」「そりゃ東京者の云うことだろう。田舎に生活してる者には珍らしくはないよ」「そうでないさ、東京者にこの趣味なんぞが解るもんか」「田舎者にだって、君が感じてる様な趣味は解らし・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・『浮雲』時代の日記に、「常に馴れたる近隣の飼犬のこの頃は余を見ても尾を振りもせず跟をも追はず、その傍を打通れば鼻つらをさしのべて臭ひを嗅ぐのみにて余所を向く、この頃はを食する事稀なれば残りを食まする事もしばしばあらざればと心の中に思ひたり、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・私はその匂を嗅ぐと、いっそう空腹がたまらなくなって、牽々と目が眩るように覚えた。外はクワッと目映しいほどよい天気だが、日蔭になった町の向うの庇には、霜が薄りと白く置いて、身が引緊るような秋の朝だ。 私が階子の踏子に一足降りかけた時、ちょ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ どうしても会わねばならないと思いつめた女の一途さに、情痴のにおいを嗅ぐのは、昨日の感覚であり、今日の世相の前にサジを投げ出してしまった新吉にその感覚がふと甦ったのは当然とはいうものの、しかし女の一途さにかぶさっている世相の暗い影から眼・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・先生は鼻眼鏡を隆い鼻のところに宛行って、過ぎ去った自分の生活の香気を嗅ぐようにその古い洋書を繰りひろげて見て、それから高瀬にくれた。 正木大尉は幹事室の方に見えた。先生と高瀬と一緒にその室へ行った時は、大尉は隅のところに大きな机を控えて・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ この考えが、古い都会の残った香でも嗅ぐ思いを起させた。古い東京のものでありさえすれば、何でもお三輪にはなつかしかった。藍万とか、玉つむぎとか、そんな昔流行った着物の小切れの残りを見てもなつかしかった。木造であったものが石造に変った震災・・・ 島崎藤村 「食堂」
出典:青空文庫