・・・ると、必ずしも敬服に価すべき良風許りでもない様なるが、さすがに優等民族じゃと羨しく思わるる点も多い、中にも吾々の殊に感嘆に堪えないのは、彼等が多大の興味を以て日常の食事を楽む点である、それが単に個人の嗜好と云うでなく、殆ど社会一般の風習であ・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ 喬はその話を聞いたとき、女自身に病的な嗜好があるのなればとにかくだがと思い、畢竟廓での生存競争が、醜いその女にそのような特殊なことをさせるのだと、考えは暗いそこへ落ちた。 その女はおしのように口をきかぬとS―は言った。もっとも話を・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に浸潤した、美食に対する嗜好や安逸や怯懦は、彼から生きていこうとする意志をだんだんに持ち去っていた。しかし彼は幾度も心を取り直して生活に向かっていった。が、彼の思索や行為はいつの間にか佯りの・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・勿論例の主義という手製料理は大嫌ですが、さりとて肉とか薯とかいう嗜好にも従うことが出来ません」「それじゃア何だろう?」と井山がその尤もらしいしょぼしょぼ眼をぱちつかした。「何でもないんです、比喩は廃して露骨に申しますが、僕はこれぞと・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・しかるに幸か不幸か、彼の健康はいかにしても彼の嗜好に反する学術を忍んで学ぶほどの弾力を有していない。彼は二年間に赤十字社に三度入院した。医師に勧められて三度湯治に行った。そしてこの間彼の精神の苦痛は身体の病苦と譲らなかったのはすなわち彼自身・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・と自分、外に村の者、町の者、出張所の代診、派出所の巡査など五六名の者は笊碁の仲間で、殊に自分と升屋とは暇さえあれば気永な勝負を争って楽んでいたのが、改築の騒から此方、外の者はともかく、自分は殆ど何より嗜好、唯一の道楽である碁すら打ち得なかっ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・婆さんは長く奉公して、主人が食物の嗜好までも好く知っていた。 小娘は珈琲茶碗を運んで来た。婆さんも牛乳の入物を持って勝手の方から来た。その後から、マルも随いて入って来た。「マルも年をとりまして御座いますよ。この節は風邪ばかり引いて、・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ 音楽に対する嗜好は早くから眼覚めていた。独りで讃美歌のようなものを作って、独りでこっそり歌っていたが、恥ずかしがって両親にもそれは隠して聞かせなかったそうである。腕白な遊戯などから遠ざかった独りぼっちの子供の内省的な傾向がここにも認め・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・何よりも、フランス映画らしい、あくの抜けたさわやかさが自分の嗜好に訴えて来る。 汽車でアーヴルに着いてすっかり港町の気分に包まれる、あの場面のいろいろな音色をもった汽笛の音、起重機の鎖の音などの配列が実によくできていて、ほんとうに波止場・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・ 夏目漱石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。もちろん芸術家も時として衣食のために働かなければならぬと同様に、科学者もまた時と・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
出典:青空文庫