・・・舳軽く浮かべば舟底たたく水音、あわれ何をか囁く。人の眠催す様なるこの水音を源叔父は聞くともなく聞きてさまざまの楽しきことのみ思いつづけ、悲しきこと、気がかりのこと、胸に浮かぶ時は櫓握る手に力入れて頭振りたり。物を追いやるようなり。 家に・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・そのうめきのうちに早口に囁くような詞が聞えた。「いやだ、いやだ。」そして両手を隠しから出した。幅の広い鉄で鍛えたような鍛冶職の手である。ただそれが年の寄ったのと、食物に饑えたのとで、うつろに萎びている。その手を体の両側に、下へ向けてずっと伸・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・、子供が四人もあって、手の皮なんかもこんなに厚くなって、ひびだらけでささくれ立って、こんな手で女の柔い着物などにさわったら、手の皮がひっかかっていけないでしょう、このようなていたらくで、愛だの恋だのを囁く勇気は流石にありませんが、しかし、色・・・ 太宰治 「嘘」
・・・ただ意味もなく、活動小屋の絵看板見あげたり、呉服屋の飾窓を見つめたり、ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁く声が聞えて、これはならぬと烈しくからだをゆすぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、私はふた・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・などと、けしからぬ事を私に囁く。すれちがう女にだけは、ばかに目が早いのである。私は、にがにがしくてたまらない。「美人じゃありませんよ。」「そうかね、二八と見えたが。」 呆れるばかりである。「疲れたね、休もうか。」「そうで・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・それから、小さい声で、いい仕事の出来るように、いい仕事の出来るように、と呟いて、ひどく悲しくなって真暗い空を仰いで、もっとうんと小さい声で、いい仕事をさせて下さい、と囁くように言いました。渓流の音だけが物凄くて、――渓流の音と言えば、すぐに・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・母は、苦しい息の下から囁く。おまえ、お母さんが憎いかい?」 美濃は興覚め顔に、「まあ、そんなところさ。」椅子から立ちあがって部屋の中を歩きまわり、「追い詰められた人たちは、きっときっと血族相食をはじめる。」「よせよ。どうも古い。大時・・・ 太宰治 「古典風」
・・・それでも時々、心細さのあまり、そっと勝治に囁くことがある。「馬鹿野郎。おれを信用しねえのか。」「信用するわ。」 信用するより他はない。節子には、着物を失った淋しさの他に、もし此の事が母に勘附かれたらどうしようという恐ろしい不安も・・・ 太宰治 「花火」
・・・学童二名、息せき切って何やら奥田教師に囁く。そうか、よし。すぐ行く。妹が警察に挙げられました。ばくちです。麻雀賭博を学校の子供たちに教えてやっていたのです。たぶん、そんな事じゃないかと思っていました。ちょっと警察に行って来ます。・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・そう云って彼は私に囁くのである。私には彼女がむしろ烏瓜の花のように果敢ない存在であったように思われるのである。 大きな蛾の複眼に或る適当な角度で光を当てて見ると気味の悪いように赤い、燐光に類した光を発するのがある。何となく物凄い感じのす・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
出典:青空文庫