・・・鬼の国から吹き上げる風が石の壁の破れ目を通って小やかなカンテラを煽るからたださえ暗い室の天井も四隅も煤色の油煙で渦巻いて動いているように見える。幽かに聞えた歌の音は窖中にいる一人の声に相違ない。歌の主は腕を高くまくって、大きな斧を轆轤の砥石・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・本当に、嬉しい手紙というものは、何ゆえ、ああも心を吸いよせ、永い道中で封筒の四隅が皺になり、けばだったのまでよいものだろう! 手紙は私の留守にフダーヤが伊豆に出かけたこと、あまり愉快でなかったこと、特に宿屋の隣室に変な一組がいて悩殺され・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・何処からこれ程の人々が吐き出されて来たか、大抵一人で、連があっても男は男同士、女は女づれの群が、四隅に離れて立った赤柱の下に数団、待ち遠しげな眼つきで自分の乗ろうとする電車の来る方角を眺めている。 ほんの一時間半も経てば、此十字街の有様・・・ 宮本百合子 「小景」
出典:青空文庫