・・・などという思想発展の回想録或いは宣言書を読んでも、私には空々しくてかなわない。彼等がその何々主義者になったのには、何やら必ず一つの転機というものがある。そうしてその転機は、たいていドラマチックである。感激的である。 私にはそれが嘘のよう・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・せま苦しい箱の中で過したながい旅路を回想したのである。「なんだか知れぬが、おおきい海を。」「うん。」また、うなずいてやった。「やっぱり、おれと同じだ。」 彼はそう呟き、滝口の水を掬って飲んだ。いつの間にか、私たちは並んで坐っ・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・ そうして、或る眠られぬ一夜、自分の十五年間の都会生活に就いて考え、この際もういちど、私の回想記を書いてみようかと思い立った。もういちど、というわけは、五年くらい前に、私は「東京八景」という題で私のそれまでの東京生活をいつわらずに書いて・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・ 明るく鮮やかであった白馬会時代を回想してみると、近年の洋画界の一面に妙に陰惨などす黒いしかもその中に一種の美しさをもったものの影が拡がって来るのを覚えるのは私ばかりではあるまい。古いドイツやスペインあたりを思わせるような空気が、最も新・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・今過ぎ去ったばかりの昨日の事をも全く異った時代のように回想しなければならぬ事が沢山にある。有楽座を日本唯一の新しい西洋式の劇場として眺めたのも僅に二、三年間の事に過ぎなかった。われわれが新橋の停車場を別れの場所、出発の場所として描写するのも・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ 私は毎年の暑中休暇を東京に送り馴れたその頃の事を回想して今に愉快でならぬのは七月八月の両月を大川端の水練場に送った事である。 自分は今日になっても大川の流のどの辺が最も浅くどの辺が最も深く、そして上汐下汐の潮流がどの辺において最も・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・少年の頃の回想はその時いかに我々を幸福にしたか知れない。 橋場辺の岸から向岸を見ると、帝国大学のペンキに塗られた艇庫が立っていて、毎年堤の花の咲く頃、学生の競漕が行われて、艇庫の上のみならず、そのあたり一帯が競漕を見にくる人で賑かになる・・・ 永井荷風 「向島」
・・・そして恨然として江戸徃昔の文化を追慕し、また併せてわが青春の当時を回想するのである。 震災の後わたくしは多く家にのみ引籠っているので、市中繁華の街の景況については、そのいわゆる復興の如何を見ることが稀である。それに反して向島災後の状況に・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・銀座通のカッフェー内外の光景が僕をしては巴里に在った当時のことを回想せしめ生田さんをしては伯林のむかしを追憶せしめたのも其等の為であろう。僕等は一時全く忘れていた自然派文学の作例を思出して之を目前の光景に比較し、西洋の過去と日本の現在との異・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・余がかくのごとく回想しつつあった時に例の婆さんがどうです下りましょうかと促がす。 一層を下るごとに下界に近づくような心持ちがする。冥想の皮が剥げるごとく感ぜらるる。階段を降り切って最下の欄干に倚って通りを眺めた時にはついに依然たる一個の・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫