・・・忙しく諸味を汲み上げるあいまあいまに、山で樹液のしたたる団栗を伐っていることが思い出された。白い鋸屑が落葉の上に散って、樹は気持よく伐り倒されて行く。樹の倒れる音響に驚いて小鳥がけたたましく囀って飛びまわる。……山仕事の方がどれだけ面白いか・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・ 戸外には、谷間の嵐が団栗の落葉を吹き散らしていた。戸や壁の隙間から冷い風が吹きこんできた。両人は十二時近くになって、やっと仕事をよした。 猫は、彼等が寝た後まで土間や、床の下やでうろ/\していた。追っても追っても外へ出て行かなかっ・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人でその新しい歩道を踏んで、鮨屋の店の前あたりからある病院のトタン塀に添うて歩いて行った。植木坂は勾配の・・・ 島崎藤村 「嵐」
長え長え昔噺、知らへがな。山の中に橡の木いっぽんあったずおん。そのてっぺんさ、からす一羽来てとまったずおん。からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。また、からすあ、があて啼けば、橡の実・・・ 太宰治 「雀こ」
・・・ 屋敷の入り口から玄関までは橡の並み木がつづいています。その両わきはりんご畑でちょうどりんごが赤く熟していました。書斎にはローマで買って来たという大理石の半身像が幾つもある。サラサン氏は一々その頭をなでその顔をさすって見せるのでした。そ・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・ 私が生れて初めて原稿料というものを貰って自分で自分に驚いたのは「団栗」という小品に対して高浜さんから送られた小為替であった。当時私は大学の講師をして月給三十五円とおやじからの仕送りで家庭をもっていたのである。かくして幼稚なるアマチュア・・・ 寺田寅彦 「高浜さんと私」
・・・ 大学講堂の裏の橡の小森をぬけて一町くらいのゲオルゲン街の一区劃に地理教室と海洋博物館とが同居していた。地理のコロキウムはここで行われ、次の二学年を通じて聴いたペンクの一般地理学の講義もここの講堂で授けられた。気象や地球物理に比べて地理・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・大概の菓物はくだものに違いないが、栗、椎の実、胡桃、団栗などいうものは、くだものとはいえないだろう。さらばこれらのものを総称して何というかといえば、木の実というのである。木の実といえば栗、椎の実も普通のくだものも共に包含せられておる理窟であ・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・小鳥に踏み落されて阪道にこぼれたる団栗のふつふつと蹄に砕かれ杖にころがされなどするいと心うくや思いけん端なく草鞋の間にはさまりて踏みつくる足をいためたるも面白し。道は之の字巴の字に曲りたる電信の柱ばかりはついついと真直に上り行けばあの柱まで・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・弟どもも一人一人の知行は殖えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗の背競べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。 政道は地道である限りは、咎めの帰するところを問うものはない。一旦・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫