・・・「どうしましょう? 人違いですが。」「困る。実に困る。第一革命以来一度もないことだ。」 年とった支那人は怒ったと見え、ぶるぶる手のペンを震わせている。「とにかく早く返してやり給え。」「君は――ええ、忍野君ですね。ちょっと・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・去年も今年も不作で納金に困る由をあれだけ匂わしておきながら、いざ一人になるとそんな明らかなことさえ訴えようとする人はなかった。彼はそれでも十四、五人までは我慢したが、それで全く絶望してもう小作人を呼び入れることはしなかった。そして火鉢の上に・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ところがその後になって聞いてみると、その小説が載ってから完結になる迄に前後十九通、「あれでは困る、新聞が減る、どうか引き下げてくれ」という交渉が来たということである。これは巌谷さんの所へ言って来たのであるが、先生は、泉も始めて書くのにそれで・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・いうものでもない、利休は法あるも茶にあらず法なきも茶にあらずと云ってある位である、されば聊かの用意だにあれば、日常の食事を茶の湯式にすることは雑作もないことである、只今日の日本家庭の如く食室がなくては困る、台所以外食堂というも仰山なれど、特・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・と、奥へ注意してから、「女房は弱いし、餓鬼は毎日泣きおる、これも困るさかいなア。」「それはお互いのことだア。ね」と、僕が答えるとたん、から紙が開いて、細君が熱そうなお燗を持って出て来たが、大津生れの愛嬌者だけに、「えろうお気の毒さま・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ただ「僕は困る」と言われた。と、私は、「いえ、悪くさえいわねば好いから……調法なものだ位いに書いて下さい」と頼んだ。そんな風で、いわばこちらで書き上げた物にただ署名してもらう位いにしても快諾されたことがある。 私は夏目さんとは十年以上の・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・凍ってしまっては、やまがらが、水を飲むのに、困るだろうと思ったからです。 このとき、ふと、吉雄は、さっきお母さんがおいいなされたことから、「やまがらにも、あたたかなお湯をいれてやったら、体があたたまって、元気が出るだろう。」と、思い・・・ 小川未明 「ある日の先生と子供」
・・・いや金さん、こんなことをしておくんなすっちゃ困るね。この前はこの前であんな金目の物を貰うしまたどうもこんな結構なものを……」「なに、そんなに言いなさるほどの物じゃねえんで……ほんのお見舞いの印でさ」「まあせっかくだから、これはありが・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・そこで女子は栄養がとれんで困る。そこへもって来て、勤めがえらい。蒼い顔して痩せおとろえてふらふらになりよる。まるでお化けみたいになりよる。それが、夜なかに人の寝静まった頃に蒲団から這いだして行燈の油を嘗めよる。それを、客が見て、ろくろ首や思・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「馬鹿云っちゃ困るよ。僕なんかそりゃ健全なもんさ。唯貧乏してるというだけだよ。尤も君なんかの所謂警察眼なるものから見たら、何でもそう見えるんか知らんがね、これでも君、幾らかでも国家社会の為めに貢献したいと思って、貧乏してやってるんだから・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫