・・・ 塾の庭へ出ると、桜の若樹が低い土手の上にも教室の周囲にもあった。ふくらんだ蕾を持った、紅味のある枝へは、手が届く。表門の柵のところはアカシヤが植えてあって、その辺には小使の音吉が腰を曲めながら、庭を掃いていた。一里も二里もあるところか・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 麦を刈り取ったばかりの畑に、その酔いどれの大尉をひきずり込み、小高い土手の蔭に寝かせ、お酌の女自身もその傍にくたりと坐り込んで荒い息を吐いていました。大尉は、すでにぐうぐう高鼾です。 その夜は、その小都会の隅から隅まで焼けました。・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・身を躍らせて山を韋駄天ばしりに駈け下りみちみち何百本もの材木をかっさらい川岸の樫や樅や白楊の大木を根こそぎ抜き取り押し流し、麓の淵で澱んで澱んでそれから一挙に村の橋に突きあたって平気でそれをぶちこわし土手を破って大海のようにひろがり、家々の・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 刀根川の土手の上の草花の名をならべた一章、これを見ると、いかにも作者は植物通らしいが、これは『日記』に書いてあるままを引いたのである。 しかし、とにかく、一青年の志を描き出したことは、私にとって愉快であった。『生』で描いた母親の肖・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・濠の土手に淡竹の藪があって、筍が沢山出た。僕等は袋を母親に拵えて貰って、よく出懸けて行っては、それを取って来たものだ。其頃は屹度空が深い碧で、沼には蘆の新芽が風に吹かれて、対岸の丘には躑躅が赤く咲いて居た。 初夏の空の碧! それに、欅の・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・見ると池の真中に土手のようなものが突出していて、その端の小屋のようなものの中で何かしら機械が運転しているらしい。宿へ帰って聞いてみると、県から水電会社への課税のような意味で大正池の泥浚えをやらせているのだという。ほんの申訳にやっているのだと・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ 荒川放水路の水量を調節する近代科学的閘門の上を通って土手を数町川下へさがると右にクラブハウスがあり左にリンクが展開している。 クラブの建物はいつか覗いてみた朝霞村のなどに比べるとかなり謙遜な木造平家で、どこかの田舎の学校の運動場に・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・ 両側の土手には草の中に野菊や露草がその時節には花をさかせている。流の幅は二間くらいはあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川の流の末だということだけは知ることができた。 真間川はむかしの書物には継川と・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・左右ともに水田のつづいた彼方には鉄道線路の高い土手が眼界を遮っていた。そして遥か東の方に小塚ッ原の大きな石地蔵の後向きになった背が望まれたのである。わたくしはもし当時の遊記や日誌を失わずに持っていたならば、読者の倦むをも顧ずこれを採録せずに・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出ているのを滑稽だと笑った事を思い出す。今夜は笑うどころではない。命の欲しい者は用心じゃと云う文句が聖書にでもある格言のように胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多に下りると滑って尻餅を搗く。険呑だと八合目あた・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫