・・・漆喰の土間の隅には古ぼけたビクターの蓄音器が据えてあって、磨り滅ったダンスレコードが暑苦しく鳴っていた。「元来僕はね、一度友達に図星を指されたことがあるんだが、放浪、家をなさないという質に生まれついているらしいんです。その友達というのは・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
九段坂の最寄にけちなめし屋がある。春の末の夕暮れに一人の男が大儀そうに敷居をまたげた。すでに三人の客がある。まだランプをつけないので薄暗い土間に居並ぶ人影もおぼろである。 先客の三人も今来た一人も、みな土方か立ちんぼう・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・下は物置で、土間からすぐ梯子段が付いている、八畳一間ぎり、食事は運んで上げましょというのを、それには及ばないと、母屋に食べに行く、大概はみんなと一同に膳を並べて食うので、何を食べささりょうと頓着しない。 梅ちゃんは十歳の年から世話になっ・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・猫は人が来るのを見ると、急に土間にとびおりて床の下に這いこんだ。そして、何か求めるようにないた。 おしかは、お櫃の蓋に重しの石を置いて、つゞくった薄い坐蒲団の上に戻った。やがて、猫は床の下から這い出て、台所をうろ/\ほっつきまわった。食・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・細工場、それは土間になっているところと、居間とが続いている、その居間の端、一段低くなっている細工場を、横にしてそっちを見ながら坐ったのである。仕方がない、そこへ茶をもって行った。熱いもぬるいも知らぬような風に飲んだ。顔色が冴えない、気が何か・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・少し許りの土間を過ぎて、今宵の不思議な運を持来らした下駄と別れて上へあがった。女は何時の間に笠を何処へ置いたろう、これに気付いた時は男は又ギョッとして、其のさかしいのに驚いた。板の間を過ぎた。女は一寸男の手を上げた。男は悟った。畳厚さだけ高・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 都会の借家ずまいに慣れた目で、この太郎の家を見ると、新規に造った炉ばたからしてめずらしく、表から裏口へ通り抜けられる農家風の土間もめずらしかった。奥もかなり広くて、青山の親戚を泊めるには充分であったが、おとなから子供まで入れて五人もの・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・という顔付で、店頭の土間に居る稼ぎ人らしい内儀さんの側へ行った。「お内儀さん、今日は何か有りますかネ」 と尋ねて、一寸そこへ来て立った高瀬と一諸に汽車を待つ客の側に腰掛けた。 極く服装に関わない学士も、その日はめずらしく瀟洒なネ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・そこには土間で機を織っている。小声で歌を謡っている。「おおい」と言って馬を曳いた男が立ちどまる。藁の男は足早に同じ軒下へ避ける。馬は通り抜ける。蜜柑を積んでいる。 と、「まあ誰ぞいの」と機を織っていた女が甲走った声を立てる。藁の・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ と男のひとは大声を挙げ、つづいて外に飛び出そうとしましたが、私は、はだしで土間に降りて男を抱いて引きとめ、「およしなさいまし。どちらにもお怪我があっては、なりませぬ。あとの始末は、私がいたします」 と申しますと、傍から四十の女・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
出典:青空文庫