・・・が、それは、文字通り時々で、どちらかと云えば、明日の暮しを考える屈託と、そう云う屈託を抑圧しようとする、あてどのない不愉快な感情とに心を奪われて、いじらしい鼠の姿も眼にはいらない事が多い。 その上、この頃は、年の加減と、体の具合が悪いの・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・彼は、発作が止んで、前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、時としてこの怖れが、稲妻のように、己を脅かすのを意識した。そうして、同時にまた、そう云う怖れを抱くことが、既に発狂の予告のような、不吉な不安にさえ、襲われた。「発狂したらどうす・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・その途端です、窓の外に降る雨の音を圧して、もう一つ変った雨の音が俄に床の上から起ったのは。と言うのはまっ赤な石炭の火が、私の掌を離れると同時に、無数の美しい金貨になって、雨のように床の上へこぼれ飛んだからなのです。 友人たちは皆夢でも見・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・そこに下見囲、板葺の真四角な二階建が外の家並を圧して立っていた。 妻が黙ったまま立留ったので、彼れはそれが松川農場の事務所である事を知った。ほんとうをいうと彼れは始めからこの建物がそれにちがいないと思っていたが、這入るのがいやなばかりに・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そして今までとは打って変って神々しい威厳でクララを圧しながら言葉を続けた。「神の御名によりて命ずる。永久に神の清き愛児たるべき処女よ。腰に帯して立て」 その言葉は今でもクララの耳に焼きついて消えなかった。そしてその時からもう世の常の・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ さて心がら鬼のごとき目をみひらくと、余り強く面を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥に且つ幽に、しかも細く、耳の端について、震えるよう。 それも心細く、その言う処を確め・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・あまつさえ酔に乗じて、三人おのおの、その中三婦人の像を指し、勝手に選取りに、おのれに配して、胸を撫で、腕を圧し、耳を引く。 時に、その夜の事なりけり。三人同じく夢む。夢に蒋侯、その伝教を遣わして使者の趣を白さす。曰く、不束なる女ども、猥・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・「無論だろうね。」「圧してみて下さい。開きません? ああ、そうね、あなたがなすって形の、その字の上を、まるいように、ひょいと結んで、と言いますとね。」 信也氏はその顔を瞻って、黙然として聞いたというのである。「――苦もなく開・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・政界の新人の領袖として名声藉甚し、キリスト教界の名士としてもまた儕輩に推されていたゆえ、主としてキリスト教側から起された目覚めた女の運動には沼南夫人も加わって、夫君を背景としての勢力はオサオサ婦人界を圧していた。 丁度巌本善治の明治女学・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 母が爪で圧したのだ、と彼は信じている。しかしそう言ったとき喬に、ひょっとしてあれじゃないだろうか、という考えが閃いた。 でも真逆、母は知ってはいないだろう、と気強く思い返して、夢のなかの喬は「ね! お母さん!」と母を責めた。・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫