・・・エグジスタンシアリスムという言葉は、巴里では地下鉄の中でも流行語になっているということだが、日本では本屋の前に行列が作られるのは、老大家をかかえた岩波アカデミズム機関誌の発売日だけである。日本もフランスも共に病体であり、不安と混乱の渦中にあ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 当てもないままに、赤井はひょこひょことさまようていたが、やがて耳の千切れるような寒さにたまりかねたのか、わずかの温みを求めて、足は自然に難波駅の地下鉄の構内に向いた。 そして構内に蠢いている浮浪者の群れの中にはいった赤井は、背中に・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・新吉は地下鉄の構内なら夕刊を売っているかも知れないと思い、階段を降りて行った。 阪急百貨店の地下室の入口の前まで降りて行った時、新吉はおやっと眼を瞠った。 一人の浮浪者がごろりと横になっている傍に、五つ六つ位のその浮浪者の子供らしい・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・ 大鉄百貨店の前のコンクリートの広い坂道を、地下鉄の動物園前の方へ降りて行くと、ホテルや旅館がぼつりぼつりあった。 一軒ずつ当ってみたが、みな断られた。「だめだね」 もう地下鉄の中ででも夜を明かすより方法がない、と娘の方へ半・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・それでも松本は、大阪は変ったぜ、地下鉄出来たん知ってるな。そんなら、赤玉のムーラン・ルージュが廻らんようになったんは知らんやろなどと、黙っているわけにもいかず、喋っていた。そうでっか、わても一ぺん大阪へ帰りたいと思てまんねんと、坂田も話を合・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ 渋谷から地下鉄。新橋下車。銀座のほうに歩きかけて、やめて、川の近くのバラックの薬局から眠り薬ブロバリン、二百錠入を一箱買い求め、新橋駅に引きかえし、大阪行きの切符と急行券を入手した。大阪へ行ってどうするというあても無いのだが、汽車に乗・・・ 太宰治 「犯人」
・・・「わたくし、うちへ帰りますの、地下鉄で。新聞社にちょっと用事があったもので、……」 何の用事だろう。嘘だ。男と逢って来たんじゃないか? 新聞社に用事とは、大きく出たね。どうも女の社会主義者は、虚栄心が強くて困る。「講演ですか?」・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・一度影を隠した銀座の柳は、去年の夏ごろからまた街頭にたおやかな緑の糸をたれたが、昔の夢の鉄道馬車の代わりにことしは地下鉄道が開通して、銀座はますます立体的に生長することであろう。百歳まで生きなくとも銀座アルプスの頂上に飛行機の着発所のできる・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・日曜の午後に谷中へ行ってみると寛永寺坂に地下鉄の停車場が出来たりしてだいぶ昔と様子がちがっている。昔の御院殿坂を捜して墓地の中を歩いているうちに鉄道線路へ出たがどもう見覚えがない。陸橋を渡るとそこらの家の表札は日暮里となっている。昨日の雨で・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・ またある日、地下鉄からおりて歩きだすと同時に車も動きだして、ポーッと圧搾空気の汽笛を鳴らす、すると左の手に持っているふろしき包みの中の書物が共鳴して振動する。その振動が手の指先に響いてびりびりとしびれるように感じられた。 研究室へ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
出典:青空文庫