・・・ただ、云う事を聞けと云うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きすくめたまま、引きずるようにして、つれて行きます。泣こうにも、喚こうにも、まるで人通りのない時分なのだから、仕方がございませぬ。」「ははあ、それから。」「それから、とうとう八・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ ――家、いやその長屋は、妻恋坂下――明神の崖うらの穴路地で、二階に一室の古屋だったが、物干ばかりが新しく突立っていたという。―― これを聞いて、かねて、知っていたせいであろう。おかしな事には、いま私たちが寄凭るばかりにしている、こ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・渠等は社の抜裏の、くらがり坂とて、穴のような中を抜けてふとここへ顕れたが、坂下に大川一つ、橋を向うへ越すと、山を屏風に繞らした、翠帳紅閨の衢がある。おなじ時に祭だから、宵から、その軒、格子先を練廻って、ここに時おくれたのであろう。が、あれ、・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・と口もやや馴々しゅう、「お米の容色がまた評判でございまして、別嬪のお医者、榎の先生と、番町辺、津の守坂下あたりまでも皆が言囃しましたけれども、一向にかかります病人がございません。 先生には奥様と男のお児が二人、姪のお米、外見を張るだ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・大路の人の跫音冴えし、それも時過ぎぬ。坂下に犬の吠ゆるもやみたり。一しきり、一しきり、檐に、棟に、背戸の方に、颯と来て、さらさらさらさらと鳴る風の音。この凩! 病む人の身をいかんする。ミリヤアドは衣深く引被ぐ。かくは予と高津とに寝よとてこそ・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ というのがね、先刻お前さんは、連にはぐれた観光団が、鼻の下を伸ばして、うっかり見物している間抜けに附合う気で、黙ってついていてくれたけれど、来がけに坂下の小路中で、あの提灯屋の前へ、私がぼんやり突立ったろう。 場所も方角も、まるで・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 九段の坂下の近角常観の説教所は本とは藤本というこの辺での落語席であった。或る晩、誰だかの落語を聴きに行くと、背後で割れるような笑い声がした。ドコの百姓が下らぬ低級の落語に見っともない大声を出して笑うのかと、顧盻って見ると諸方の演説会で・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・今あとで坂本さんが出て土佐言葉の標本を諸君に示すかも知れませぬ。ずいぶん面白い言葉であります。仮名で書くのですから、土佐言葉がソックリそのままで出てくる。それで彼女は長い手紙を書きます。実に読むのに骨が折れる。しかしながら私はいつでもそれを・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・そしてちょっと考えて、神楽坂の方へとぼとぼ……、その坂下のごみごみした小路のなかに学生相手の小質屋があり、今はそこを唯一のたのみとしているわけだが、しかし質種はない。いろいろ考えた末、ポケットにさしてある万年筆に思い当り、そや、これで十円借・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ やがてそんな登勢を見こんで、この男を匿ってくれと、薩摩屋敷から頼まれたのは坂本龍馬だった。伊助は有馬の時の騒ぎで畳といわず壁といわず、柱といわず、そこらじゅう血まみれになったあとの掃除に十日も掛った自分の手を、三月の間暇さえあれば嗅い・・・ 織田作之助 「螢」
出典:青空文庫