・・・ 番頭は例の如くわれわれをあくまで仕様のない坊ちゃんだというように、にやにや笑いながら、「駄目ですよ。いくらにもなりませんよ。」「まあ、君、何冊あるか調べてから値をつけたまえ。」「揃っていても駄目ですよ。全くのはなし、他のお客様・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・世間見ずの坊ちゃんの浅薄愚劣なる世界観を、さもさも大人ぶって表白した筋書である。こんなものを演ぜねばならぬ役者はさぞかし迷惑な事だろうと思う。あの芸は、あれより数十倍利用のできる芸である。○油屋御こんなどもむやみに刀をすり更えたり、手紙・・・ 夏目漱石 「明治座の所感を虚子君に問れて」
・・・あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊ちゃん」の中に赤シャツという渾名をもっている人があるが、あれはいったい誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ お前は、「それゃ表面のこった、そんなもんじゃないや、坊ちゃん奴」と云おうとしている。分った。 職業を選択している間に「機会」は去ってしまうんだ。「選択」してる内に、外の仲間が、それにありつくんだ。そして選択してる内には自分で自分の胃の・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・さあ坊ちゃん。きっとこいつは談します。早く涙をおふきなさい。まるで顔中ぐじゃぐじゃだ。そらええああすっかりさっぱりした。 お話がすんだら早く学校へ入らっしゃい。 あんまり長くなって厭きっちまうとこいつは又いろいろいやなことを云います・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・「さあ、向うの坊ちゃんがた。いかがですか。おとり下さい。」 ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまっていましたがカムパネルラは「ありがとう、」と云いました。すると青年は自分でとって一つずつ二人に送ってよこし・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ 恭二は静岡の魚問屋の坊ちゃんで、倉の陰で子守相手に「塵かくし」ばかり仕て居たほど気の弱い頭の鉢の開いた様な子だったが十九の年、中学を出ると一緒に、良吉の家へ養子になった。 良吉の妹が口を利いたので、母親がほんとでありながら、愛され・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ダアウィンの境遇は謂わばよい意味でのお坊ちゃん風な色調がつよいのに反して、ファブルはコルシカ辺に教師をしたりして貧困と窮乏と闘いつつ、自分の科学への道を切りひらいて行っている。イギリス人とフランス人、特にドウデエなどがまざまざと特徴づけてい・・・ 宮本百合子 「作家のみた科学者の文学的活動」
・・・二階のお座敷は賑やかで、夫人のほかに、若い男のひとも何人か居合わせ、小さいお嬢さん坊ちゃんも、そこの襖から出入りした。勿論御主人も居られた。歓待して頂いた。若い娘らしくそれを十分に感じ、くつろいだ、なついた調子で、啄木の歌がすきだというよう・・・ 宮本百合子 「白藤」
・・・「坊ちゃんはいい子ですね。あのね、小母さんはまだこれから寝なくちゃならないのよ。あちらへいってらっしゃいな。いい子ね。」 灸は婦人を見上げたまま少し顔を赧くして背を欄干につけた。「あの子、まだ起きないの?」「もう直ぐ起きます・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫