・・・という題をつけて書いたその小説は、やがて父が紹介者をもっていたという関係から私の知らないうちに坪内雄蔵氏のところへ送られた。そして、中央公論に紹介され、そこに発表されることにきまった。坪内雄蔵氏の注意で、二百何十枚かあったところを百五十枚ほ・・・ 宮本百合子 「作者の言葉(『貧しき人々の群』)」
・・・明治の初期の文学では、江戸末期の戯作者風な作者と黎明期の啓蒙書・翻訳文学が対立したが、尾崎紅葉の硯友社時代には、仏文学の影響やロシア文学の影響をもちながら、作家気質の伝統は戯作者気質の筋をひいていた。坪内逍遙の「当世書生気質」は、日本の近代・・・ 宮本百合子 「作家と教養の諸相」
・・・ 師といえば、私の作品を初めて紹介して下さった坪内逍遙先生のこともふれなければならないわけである。 坪内先生とは余り年代がちがいすぎていた。それに私としての結ばれかたが他動的であったことなどから、外面には大きくかかわりながら、語ると・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・ 坪内逍遙という人がいたおかげで早稲田に演劇に関するものがややまとまったというような偶然にたよっていては、まことに心細いことだと思う。〔一九四〇年十二月〕 宮本百合子 「実際に役立つ国民の書棚として図書館の改良」
・・・を感じました。それはまだお茶の水高等女学校に在学中、何の見当もなく、一生懸命に書きました処女作「貧しき人々の群」を坪内逍遙博士に見ていただきました処、意外にも非常なお推奨を受けまして博士のお世話で中央公論に発表されたので、幸い有難い評判をい・・・ 宮本百合子 「処女作より結婚まで」
・・・ 文学を真面目に考えていた少数の人々は二十四歳であった二葉亭のこの作品から深刻に近代小説の方向を暗示された。坪内逍遙が戯曲と沙翁劇の翻訳に自分の一生を方向づける決心をしたのは、この二葉亭の小説の深い芸術の力にうたれて、小説家として自分の・・・ 宮本百合子 「生活者としての成長」
私が、初めて瀧田哲太郎氏に会ったのは、西片町に在った元の中央公論社でであった。大正五年の五月下旬であったろうか、私は坪内先生からの紹介で二百枚ばかりの小説を持ち、瀧田氏に面会を求めて行ったのです。 留守かと思ったら、幸・・・ 宮本百合子 「狭い一側面」
・・・ 坪内先生の「実行に急ぎすぎる」と云う言葉を何かに向って云われたのは、先生の作品にさえあてはまる意味深い言葉だ。 近頃、自分の内的生活を、次に次にと新たなものを受け入れる為、一つ一つをたんねんにギンミし、それに一つ一つの decis・・・ 宮本百合子 「一九二三年冬」
・・・受付で待っていると、びっくりするばかりの赭ら顔に髪の毛をもしゃとし、眼付が足柄山の金時のような感じを与える男の人が、坪内先生の手紙を片手に握って速足に出て来た。これが瀧田樗蔭氏であった。白絣に夏羽織の裾をゆすって二階へ上った。私が全く自然発・・・ 宮本百合子 「その頃」
坪内先生に、はじめて牛込余丁町のお宅でおめにかかったのは、もう十数年以前、私が十八歳の晩春であったと思う。両親が私の書いたものを坪内先生に見ていただくようにきめて、母が私を連れ余丁町のお家を訪ねたのであった。 私は受け・・・ 宮本百合子 「坪内先生について」
出典:青空文庫